」と、冗談にまぎらせようとすると、伊織は真面目に、
「いや、そうはいかんよ。あの娘は、貴公が東京から迎えに帰るのを、待っているという噂だぜ」
「本当ですか。伯父さん」新一郎は、ぎょっとした。
「本当らしいぜ、どんな縁談もはねつけているという噂だぜ。貴公も、年頃の娘をあまり待たすのは罪じゃないか。それとも、東京でもう結婚しているか」
「いや、結婚などしていません」新一郎は、はっきり打ち消した。
「早くお八重殿を欣ばせたがよい、ははははは」
「ははははは」新一郎も、冗談にまぎらして笑ったが、しかし心の中は掻き乱された。彼は、お八重を愛していないのではなかった。しかし、自分は、正しくお八重の父の仇である。この事実を隠してお八重と結婚するのは、人倫の道でないと思ったからである。
 といって、お八重に対する思慕は、胸の中に尾を曳いていて、他の女性と結婚をする気にはなれないのであった。
 新一郎は、婆やと女中と書生とを使って、麹町六番町の旗本屋敷に住んでいた。家も大きく、庭も五百坪以上あった。
 国に残した両親は、いくら上京を勧めても、国を離れるのは嫌だといって東京へ出て来なかった。
 国の両親を
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