た。が、十間ばかり走り出した時、ふと自分の持っている金も、衣類も、ことごとく盗んだものであるのに気がつくと、跳ね返されたように立ち戻って、自分の家の上り框《がまち》へ、衣類と金とを、力一杯投げつけた。
彼は、お弓に会わないように、道でない道を木曾川に添うて一散に走った。どこへ行くという当てもなかった。ただ自分の罪悪の根拠地から、一寸でも、一分でも遠いところへ逃れたかった。
三
二十里に余る道を、市九郎は、山野の別なく唯一息に馳せて、明くる日の昼下り、美濃国の大垣在の浄願寺《じょうがんじ》に駆け込んだ。彼は、最初からこの寺を志してきたのではない。彼の遁走の中途、偶然この寺の前に出た時、彼の惑乱した懺悔の心は、ふと宗教的な光明に縋《すが》ってみたいという気になったのである。
浄願寺は、美濃一円真言宗の僧録であった。市九郎は、現往明遍大徳衲《げんおうみょうへんだいとくのう》の袖に縋って、懺悔の真《まこと》をいたした。上人《しょうにん》はさすがに、この極重悪人をも捨てなかった。市九郎が有司《ゆうし》の下に自首しようかというのを止めて、
「重ね重ねの悪業を重ねた汝じゃから、有司の手
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