ずることが少なかったが、一旦人が悪事をなしているのを、静かに傍観するとなると、その恐ろしさ、浅ましさが、あくまで明らかに、市九郎の目に映らずにはいなかった。自分が、命を賭してまで得た女が、わずか五両か十両の※[#「王へん」に「毒」 247−10]瑁《たいまい》のために、女性の優しさのすべてを捨てて、死骸に付く狼のように、殺された女の死骸を慕うて駆けて行くのを見ると、市九郎は、もうこの罪悪の棲家《すみか》に、この女と一緒に一刻もいたたまれなくなった。そう考え出すと、自分の今までに犯した悪事がいちいち蘇《よみがえ》って自分の心を食い割いた。絞め殺した女の瞳や、血みどろになった繭商人《まゆしょうにん》の呻き声や、一太刀浴せかけた白髪の老人の悲鳴などが、一団になって市九郎の良心を襲うてきた。彼は、一刻も早く自分の過去から逃れたかった。彼は、自分自身からさえも、逃れたかった。まして自分のすべての罪悪の萌芽であった女から、極力逃れたかった。彼は、決然として立ち上った。彼は、二、三枚の衣類を風呂敷に包んだ。さっきの男から盗った胴巻を、当座の路用として懐ろに入れたままで、支度も整えずに、戸外に飛び出し
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