恩讐の彼方に
菊池寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)市《いち》九|郎《ろう》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)市《いち》九|郎《ろう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#「王へん」に「毒」 245−9]瑁《たいまい》
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  一

 市《いち》九|郎《ろう》は、主人の切り込んで来る太刀を受け損じて、左の頬から顎へかけて、微傷ではあるが、一太刀受けた。自分の罪を――たとえ向うから挑まれたとはいえ、主人の寵妾と非道な恋をしたという、自分の致命的な罪を、意識している市九郎は、主人の振り上げた太刀を、必至な刑罰として、たとえその切先を避くるに努むるまでも、それに反抗する心持は、少しも持ってはいなかった。彼は、ただこうした自分の迷いから、命を捨てることが、いかにも惜しまれたので、できるだけは逃れてみたいと思っていた。それで、主人から不義をいい立てられて切りつけられた時、あり合せた燭台を、早速の獲物として主人の鋭い太刀先を避けていた。が、五十に近いとはいえ、まだ筋骨のたくましい主人が畳みかけて切り
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