込む太刀を、攻撃に出られない悲しさには、いつとなく受け損じて、最初の一太刀を、左の頬に受けたのである。が、一旦血を見ると、市九郎の心は、たちまちに変っていた。彼の分別のあった心は、闘牛者の槍を受けた牡牛のように荒んでしまった。どうせ死ぬのだと思うと、そこに世間もなければ主従もなかった。今までは、主人だと思っていた相手の男が、ただ自分の生命を、脅《おど》そうとしている一個の動物――それも凶悪な動物としか、見えなかった。彼は奮然として、攻撃に転じた。彼は「おうお」と叫《おめ》きながら、持っていた燭台を、相手の面上を目がけて投げ打った。市九郎が、防御のための防御をしているのを見て、気を許してかかっていた主人の三|郎兵衛《ろうべえ》は、不意に投げつけられた燭台を受けかねて、その蝋受けの一角がしたたかに彼の右眼を打った。市九郎は、相手のたじろぐ隙に、脇差を抜くより早く飛びかかった。
「おのれ、手向いするか!」と、三郎兵衛は激怒した。市九郎は無言で付け入った。主人の三尺に近い太刀と、市九郎の短い脇差とが、二、三度激しく打ち合うた。
 主従が必死になって、十数合太刀を合わす間に、主人の太刀先が、二、
前へ 次へ
全50ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング