へ帰ってみると、同輩はなんともいわなかった。惣八郎はと見ると、篝火《かがりび》の火影《ほかげ》で、鑷《けぬき》を使っていた。惣八郎は今日のできごとを誰にも披露しなかったのだ、と思った。が、甚兵衛の心のうちには、それに対する感謝の心は湧かなかった。彼は、二重に恩を着たような心がして、心苦しくさえ思ったのである。
その後も、惣八郎が金の十字架を分捕りしたという話をする者はあったが、しかしそのできごとについては、誰も一言もいわなかった。甚兵衛は、自分の前を憚《はばか》っていわぬのかと思った。が、しかし、それは彼の邪推であることが間もなく分かった。
甚兵衛は、一心に報恩の機会を待った。惣八郎とは、陣中で朝夕《ちょうせき》顔を見合わしたが、惣八郎はなんとも、その日のできごとについては、いわなかった。甚兵衛の方でも、自らその日のできごとについて語るのを避けた。彼が惣八郎から恩を受けたことを、惣八郎に対して公認することがいかにも不快であった。今にも、恩返しをしてやると心のうちで思っていた。
やがて、正月五日になると、上使松平伊豆守が天草表へ到着した。甚兵衛は、華々しい城攻めが近づいて来たことを欣《よろこ》んだ。しかし伊豆守もまた、兵糧攻めの策を採って、いたく甚兵衛を落胆させた。
無為《むい》な日が続いた。細川の陣でも、ときどき物見の者を出すばかりであった。甚兵衛は、毎夜のように惣八郎と顔を見合せた。そして惣八郎の言語や笑いのうちに、自分に対する侮蔑が交っていはせぬかと、気を回した。その上に、惣八郎と同座していると、命を助けられたという意識が、一種の圧迫を感ぜしめて、かなり不快であった。
二月八日、絶えて久しき城攻めがあった。甚兵衛は今日こそと勇み立った。彼が戦場に向う動機は、今までとはまったく異なっていた。
功名をするためでもなければ、主君のためでもなかった。一途に恩を返すことを念としたのである。彼は無論、惣八郎の後をつけた。惣八郎はその日も懸命になって戦った。敵はたいてい百姓である上に、兵糧がだんだん乏しくなりかけていたためか、惣八郎の手に立つ者とては、一人もいなかった。無論甚兵衛の助太刀を要するような機会は来なかった。
ただ一度、惣八郎は敵と渡り合っているうちに足を滑らせた。が、片膝を突くと共に、付け入ろうとした相手を、腰車に見事に斬って捨てた。
甚兵衛は、その日ほとんど太刀打ちをしなかった。自分の前に進んで行く惣八郎が激しく戦ったからである。彼はそうして、終日惣八郎の手痛い戦いを見物するばかりであった。
二月二十八日は、いよいよ総攻めの日ときまった。城を囲んでいる九州諸藩の軍勢四万三千人のうち、原城《はらじょう》の陥落を望まなかったのは、恐らく甚兵衛一人であったろう。無論、寄手のうちに交っている切支丹宗門の者や徳川幕府に恨《うら》みを含んでいる者は、一揆の長く持ち堪えることを望んでいたかも知れない。しかし、そうした宗教的な政治的な動機を離れて、自分の独自の心で、甚兵衛は原城の陥らぬようにと祈っていた。
「もう、軍《いくさ》も今日|限《ぎ》りじゃ。城方は兵糧がない上に、山田|右衛門作《えもさく》と申す者が、有馬勢に内応の矢文《やぶみ》を射た」という噂が人々の心を引き立たせた。功名も今日|限《ぎ》りじゃ。身上《しんしょう》を起すには今日を逸してはならぬと寄手は勇み立った。
甚兵衛は今日|限《ぎ》りだと思った。今日を逸して泰平の世になったら、命を助けてもらったほどの恩を返す機会は、絶対に来ないことを知ったからである。
その日、惣八郎はやはり細川勢の魁《さきがけ》であった。いつも必ず魁をする甚兵衛が、惣八郎に位置を譲ったからである。
戦いは激しかった。宗徒どもは「さんた、まりや」と口々に叫びながら、刀槍、弓矢をはじめ、鍬、鎌などをさえ手にして戦った。三の丸が落ちてから、城方の敗勢はもはやどうともすることができなかった。素肌の老幼などは、一撃の下に倒された。彼らは倒れると、倒れたままに、十字を切って従容《しょうよう》と神の国へ急いだ。
惣八郎は手に立ちそうな相手を選んでは、薙《な》ぎ倒した。甚兵衛は、朝来《ちょうらい》惣八郎の手柄を見て歩いた。時々は、彼もまた自ら戦いたい欲望に駆られて手を下したが、こうして大事な機会が過ぎ去るのが惜しまれたので、敵を巧みに避けては、惣八郎の後を追った。
午《うま》の刻を過ぎた。諸方から焼き立てられた火の手は、とうとう本丸に達した。原城の最後の時が来た。城楼《じょうろう》の焼け落つる音に交って、死んで行く切支丹宗徒の最後の祈祷や悲鳴が聞えた。
そこには、血と炎との大いなる渦巻があった。流石《さすが》の甚兵衛も惣八郎を見失ってしまった。夕闇の迫って来るに従って、ますます丹《に》の色に
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