、一種の陶酔から覚めて命が惜しくなったらしく、急に悲鳴を挙げながら逃げ出した。すると甚兵衛もそれに釣られて、十間ばかり追いかけようとした途端、一人の壮漢が彼の行手を遮ったのである。
その男は、南蛮ふうの異様の服装をしていた。そして甚兵衛には解《げ》せぬ呪文を高らかに唱えながら、太刀を回して、切って掛った。甚兵衛は中段で受け止めたが、相手の腕の冴えていることはその一撃が十分に証明した。甚兵衛は朝からの戦いでかなり疲れていて、鎧《よろい》の重さが、ひしひしと応えるのに、その男は軽装しているために、溌剌たる動作をなした。おまけに、太刀を打ち合うごとに、その男が胸に吊している十字架《クルス》が甚兵衛の目を射た。彼はその十字架に不思議な力が籠っているように思って、一種の魅力をさえ感じた。甚兵衛の太刀先を相手が避けて、飛び退《すざ》ったはずみに、二人の位置が東西になったと思うと、敵の十字架に、折柄入りかかる夕日が煌《きらめ》いた。燦然と輝いたと思う途端、甚兵衛は頭上に強いショックを感じて、あっと思う間もなく昏倒した。
「甚兵衛どの、甚兵衛どの」と呼ばれる声に、彼はふと自分に返った。目を開くと、桶側胴《おけがわどう》の鎧を着た若武者が自分のそばに立っているのを見た。そしてその足元には、十字架を掛けた以前の壮漢が斬られて間もないと見え、ときどき弱い痙攣《けいれん》を血にまみれた全身に起している。
「惣《そう》八郎、助太刀を致した」とその若武者はいった。その男は、まぎれもない、同藩の佐原惣八郎であった。甚兵衛は頭を一振り振って、初めて意識の統一を取り返した。彼が壮漢のために、一撃を受けて昏倒したところへ、惣八郎が駆けつけて危急を救ってくれたことが、彼の頭のうちに明瞭に分明した。
彼は惣八郎に対して、命を助けられた感謝の言葉をいわねばならなかった。しかしそれがどうしても口に出なかった。
「良き兜《かぶと》でござるな」と惣八郎は何気なくいって、死骸から例の十字架をはずして、自分の物にしてしまうと、
「さあ、はや参ろう。残っておる者は、われらばかりじゃ」といい捨てたまま、小さい溝《どぶ》を飛び越えて畦道《あぜみち》を跡をも見ずに、急いだ。
甚兵衛は、独り取り残されて、深い溜息をもらした。彼は困ったことになったと考えた。どうして一刀の下に斬り殺さなかったかを、悔んだ。自分の兜の良いのと、敵の刀の切れ味の鈍いのが恨まれた。
彼は、惣八郎から恩を着ることを欲しなかったのである。彼が昏倒した時に、もし意識が残っていて、そのまま殺されるのが良いか、惣八郎に助けられるのが良いかと尋ねられたら、彼は即座に死の方を選んだであろう。
甚兵衛と惣八郎とは、犬猿もただならぬ仲というのではなかった。しかし、甚兵衛は、惣八郎がなんとなく嫌であった。磊落《らいらく》な甚兵衛には、つんと取り澄ました惣八郎が気に入らなかった。その上、甚兵衛が惣八郎に含んでいることが一つある。それはほかでもない惣八郎と甚兵衛とは、兵法の同門であった。三年前、産土神《うぶすながみ》の奉納仕合に、甚兵衛と惣八郎は顔が合った。その時に甚兵衛は敗れたが、それ以来、甚兵衛はその敗戦を償《つぐな》うため、身を砕いて稽古をした。そして、惣八郎と今一度の手合せを願っている。ところが惣八郎はいろいろな口実で、それを避けた。「惣八どのと甚兵衛どのとは、腕前においていずれが上じゃ」などいう懸案が同門の間に、提出せられるたびに、惣八郎は「われらがごとき」といって謙遜した。しかし、その言葉の後に洩す微笑は、その言葉の文字通りの意味を取り消していると噂された。が、二人は道で会えば、会釈もした。同席の場合には、言葉も交した。しかし甚兵衛は、一時の勝利の効果を長く保存しようとする惣八郎を、かなり含んでいて、いつかは目に物見せようと心掛けていた。その相手から、彼は意外にも恩を着たのである。
彼は、強い衝動のために起った頭の痛みを感じながら、惣八郎によって、無意識のうちに着せられた恩を悔んだ。
「惣八郎どのが、甚兵衛の持て余した敵を打ち取った。甚兵衛は、日頃大口を叩くが、戦場では殊のほか手に合わぬ男じゃ」という噂が陣中に伝わったらどうしようかと考えた。その上、自分の嫌な男を一生の命の恩人として持っていることは、いかに不快であるかを考えた。
彼は力なく立ち上って、陣へ退く途中でいろいろと頭を悩ました。そして、とうとうこの不快を取り除く第一の手段は、早く恩返しをすることだと考え付いた。惣八郎の危難を助けてやればよい、彼の受けただけの恩を返してやればよいと思った。その上、今は戦場である。そんな機会が、幾度も来るに違いないと思った。すると、余り屈託をした自分がばからしくなってきた。彼は元気をかなり取り返すことができた。
陣中
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング