恩を返す話
菊池寛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)旱炎《かんえん》な日
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)温泉《うんぜん》ヶ|嶽《だけ》が、
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寛永十四年の夏は、九州一円に近年にない旱炎《かんえん》な日が続いた。その上にまた、夏が終りに近づいた頃、来る日も来る日も、西の空に落つる夕日が真紅の色に燃え立って、人心に不安な期待を、植えつけた。
九月に入ると、肥州《ひしゅう》温泉《うんぜん》ヶ|嶽《だけ》が、数日にわたって鳴動した。頂上の噴火口に投げ込まれた切支丹宗徒《きりしたんしゅうと》の怨念《おんねん》のなす業だという流言が、肥筑《ひちく》の人々を慄《おそ》れしめた。
凶兆はなお続いた。十月の半ばになったある朝、人々は、庭前の梅や桜が時ならぬ蕾を持っているのを見た。
十月の終りになって、これらの不安や恐怖のクライマックスがついに到来した。それは、いうまでもなく島原の切支丹宗徒の蜂起である。
肥後熊本《ひごくまもと》の細川越中守《ほそかわえっちゅうのかみ》の藩中は、天草とはただ一脈の海水を隔つるばかりであるから、賊徒蜂起の飛報に接して、一藩はたちまち強い緊張に囚われた。
しかも一|揆《き》が、かりそめの百姓一揆とちがって、手強い底力を持っていることが知れるに従って、一藩の人心はいよいよ猛り立った。家中の武士は、元和《げんな》以来、絶えて使わなかった陣刀や半弓の手入れをし始めた。
松倉勢《まつくらぜい》の敗報が、頻々と伝えられる。しかし、藩主|忠利侯《ただとしこう》は在府中である上に、みだりに援兵を送ることは、武家|法度《はっと》の固く禁ずるところであった。国老たちの協議の末、藩中の精鋭四千を川尻《かわじり》に出して封境《ほうきょう》防備の任に当らしめることになった。
わが神山甚兵衛《かみやまじんべえ》も、この人数のうちに加わっていた。成年を越したばかりの若武者であったが、兵法の上手である上に、銅色を帯びた双の腕《かいな》には、強い力が溢れている。
国境を守って、松倉家からの注進を聞きながら、脾肉《ひにく》の嘆《たん》を洩しているうちに、十余日が経った。いよいよ十二月八日、上使|板倉内膳正《いたくらないぜんのしょう》が到着した。細川勢は、抑えに抑えた河水が堤を決したように、天草領へ雪崩《なだ》れ入った。が、しかし一揆らが唯一の命脈と頼む原城《はらじょう》は、要害無双の地であった。搦手《からめて》は、天草灘の波濤が城壁の根を洗っている上に、大手には多くの丘陵が起伏して、その間に、泥深い沼沢が散在した。
板倉内膳正は、十二月十日の城攻めに、手痛き一揆の逆襲を受けて以来、力攻めを捨てて、兵糧攻めを企てた。が、それも、長くは続かなかった。十二月二十八日、江府から松平豆州《まつだいらずしゅう》が上使として下向《げこう》したという情報に接すると、内膳正は烈火のごとく怒って、原城の城壁に、自分の身体と手兵とを擲《な》げ付けようと決心した。
細川家の陣中へも、総攻めの布告が来た。しかし翌二十九日は、冬には希な大雨が降り続いて、沼池《しょうち》の水が溢れた。三十日は、昨日の大雨の名残りで、軍勢の足場を得かねた。
あくる寛永十五年の元朝《がんちょう》は、敵味方とも麗かな初日を迎えた。内膳正は屠蘇《とそ》を汲み乾すと、立ちながら、膳を踏み砕いて、必死の覚悟を示した。
この日は、夜明け方から吹き募《つの》った、烈風が砂塵を飛ばして、城攻めには屈強の日と見えた。正辰《しょうたつ》の刻限から、寄手は、息もっかず、ひしひしと攻め寄った。
神山甚兵衛も、出陣以来、待ちに待った日にあうことを喜んだ。彼は少年の折から、一度は実地に使ってみたいと望んでいた天正祐定《てんしょうすけさだ》の陣刀を振り被りながら、難所を選んで戦うた。
しかし寄手は、散々に打ち悩まされた。内膳正が流れ弾にあたって倒れたのを機会に、総敗軍の姿となって引き退く後を、城兵が城門を開いて、慕うて来た。
この時である。甚兵衛は他の若武者と共に細川勢の殿《しんがり》をして戦いながら退いた。その時に、敵方の一人がしつこく彼につきまとって来た。六十に近い、右の頬に瘤《こぶ》のある老人である。彼は鎧《よろい》の胴ばかりを付けていた。目のうちは異様に輝いて、熱に浮されたように「さんた、まりや」と掛け声をしながら打ち込んでくる。息切れで苦しがりながら、懸命に打ち込んでくる。敵を倒すことも、自分が斬られることも、念頭にない。ただ無性に太刀を振ることが、宗教的儀礼の一部であるように見えた。
甚兵衛も、かかる老人に対しては、なんらの闘志もなかったが、余りにしつこくつきまとうので、仕方なく一刀を肩口に見舞うた。
老人は、血を見ると
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