燃え盛る原城を見つめながら、彼は不覚の涙を流したのである。
三月の二日、細川の軍勢は熊本に引き上げた。翌|上巳《じょうし》の日に、従軍の将士は忠利侯から御盃を頂戴した。甚兵衛も惣八郎も、百石の加増を賜った。その日、殿中の廊下で甚兵衛は惣八郎に会った。惣八郎は晴々しい笑顔を見せながら、
「御同様に、おめでたいことでござる」といった。甚兵衛は、戦場で「良い兜でござる」と褒められた時と同じ程度の侮辱を味わった。
太平の日が始まる。
が、甚兵衛は、戦中と同じような緊張した心持で、報恩の機会を狙った。宿直を共にする夜などは、惣八郎の身に危難が迫る場合をいろいろに空想した。参勤《さんきん》の折は、道中の駅々にて、なんらかの事変の起るのを、それとなく待ったこともある。
しかし、惣八郎は無事息災であった。事変の起りやすい狩場などでも、彼は軽捷《けいしょう》に立ち回って、怪我一つ負わなかった。その上に、忠利侯の覚えもよかった。
二、三年経つうちにも、機会が来ないので、彼は苛《いら》だった。彼は、自分で惣八郎を危難に陥れる機会を作ろうかとさえ考えた。しかしそれには、彼の心に強い反対があった。彼はまた、恩を受けたという事実を忘れようかと、考えてみた。しかし、それが徒労であることはすぐ分かった。家中の若者が一座して、武辺の話が出る時は、必ず島原一揆から例を引いた。ことに、慶長元和《けいちょうげんな》の古武者が死んで行くに従って、島原で手に合うた者が、実戦者としての尊敬をほしいままにするようになった。
「甚兵衛殿は、島原での覚えがあろう。太刀はおよそ何寸が手頃じゃ」などという質問が、よく甚兵衛に向けられた。そのたびに彼は不快な記憶を新たにした。
その上に、惣八郎は秘蔵の佩刀《はいとう》の目貫《めぬき》に、金の唐獅子の大きい金物を付けていた。それを彼は自慢にしているようであった。誰かに来歴をきかれると、
「これでござるか、天草一揆の折、分捕った十字架《クルス》を鋳直した物でござる」と彼は得意らしい微笑《えみ》を洩した。それ以上の詳細な説明はしなかったが、そばで聞いている甚兵衛は、席にいたたまらぬまでに赤面するのを常とした。
寛永十八年に、藩主忠利侯が他界して、忠尚侯が封を継いだ。それを唯一の事変として、細川藩には、封建時代の年中行事がつつがなく繰り返されるのみであった。
甚兵衛が三十の年を迎えた時、こうしていては際限がないと思った。これまでとは全然別な手段を採ろうと決心した。それは虫の好かぬ惣八郎と、努めて昵懇《じっこん》になろうとすることであった。もし、それが成功したら、嫌な人間から恩を受けているのではなくして、昵懇の友人から受けていることになると思った。そして、彼はややそれに成功した。ある口実があったのを機会に、家伝の菊一文字の短刀を惣八郎に贈ろうとした。彼は自分の家に無くてはならぬ宝刀を失うことによって、恩を幾分でも返したというような心持を得たいと思ったのである。が、惣八郎は、真正面からそれを拒絶した。甚兵衛はまたそのことを快く思わなかった。惣八郎は、故意に恩を返させまいとするのだ、彼は一生恩人としての高い位置を占めて、黙々のうちに、一生自分を見下ろそうとするのだと甚兵衛は考えた。それならばよい、意地にも返してみせる、命を助けられたのだから、見事に助け返してやると思った。二人の間は見る見るうちに、また元にかえった。
しかし、途中で会えば、惣八郎はたいてい言葉を掛けた。甚兵衛は、多くは黙礼をもってこれに対した。そのうちに、二、三年はまた無事に過ぎ去ってしまう。
金の唐獅子はあいかわらず惣八郎の佩刀《はいとう》の柄《つか》に光って、甚兵衛の気持を悪くした。
その目貫《めぬき》は、甚兵衛には惣八郎に恩を負うていることを示す永久の表章のように思われた。惣八郎は、故意にその目貫を愛玩するのだとさえ、甚兵衛は思った。
甚兵衛が四十になった時、甚兵衛と惣八郎とが相番で殿中に詰めていた。その夜、白書院《しろしょいん》の床の青磁《せいじ》の花瓶が、何者の仕業ともなく壊された。細川家の重器の一つであった。甚兵衛は素破事《すわこと》こそと思った。このお咎《とが》めを自分一人で負うて腹を切って、惣八郎の命を助けようと思った。
しかし、藩主忠尚侯は、彼が意気込んで言上するのを聞いた後、「あれか、大事ない。余の器を出しておけ」と何気なくいわれた。
彼は余りに苛だたしい時には、いっそ惣八郎を打ち果して死のうかと思った。しかしそれは自分が、恩を返す能力のないことを自白するのと同じだと思った。
寛文《かんぶん》三年の春が来た。甚兵衛は、明けて四十六の年を迎えた。天草の騒動から数えて二十六年になった。その間、報恩の機会はついに来なかったのである。
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