彼は半生の間、ただ一心にそのことばかりを考えていたので、身後《しんご》の計をさえしていなかった。配偶のきさ女との間には、一人の子供さえ無かった。が、恩返しのために、一命を捨てる時などに心残りのないことを結句喜んだ。
 今年の春から、彼は朝ごとに、咳をした。その度にしばらくは止まなかった。彼は初めて、朧げながら死を予想した。前途の短いのを知ってからは、是非|為《な》さなければならぬ報恩の一儀が、いよいよ心を悩ました。
 ところが、時はついに到来した。この年三月二十六日、甚兵衛は、藩老細川志摩から早使《はやづかい》をもって城中に呼び寄せられた。
 志摩は、老眼をしばたたきながら、
「甚兵衛、大切な上意じゃぞ」と前置をして、「このたび、殿の思召《おぼしめ》しによって、佐原惣八郎|放打《はなしうち》の仕手その方に申しつくるぞ」といった。
 甚兵衛ははっと平伏したが、その心のうちにはなんとも知れぬ、感情が汪洋《おうよう》として躍り狂った。彼はやっと心を静めて、
「惣八郎|奴《め》、何様《なによう》の科《とが》によりまして」ときいた。すると志摩はやや声を励まして、
「それは、その方の知ることではない。その方は仕手を務むれば良いのじゃ。相手も天草で手に合うた者じゃ。油断すな」といいながら苦笑した。
 甚兵衛はあわててはならぬと思った。
「とてものことに、殿|直々《じきじき》の上意を」と乞うた。
 志摩は快くそれを許可した。
「至極じゃ」といいながら、志摩は甚兵衛を差し招いて先に立った。
 やがて甚兵衛は、忠尚侯から「志摩が申したこと、良きに計らえ」とのありがたい上意を受けたのである。
 上意討ちの仕手になることは、平時における武士の最大の名誉であった。しかし甚兵衛は、もっと大きい喜びがあった。二十六年狙っていた機会が来た。彼が明暮《あけくれ》望んでいた通り、恩人に大なる危害が迫っている。しかもその危害の糸を引く者は、実に彼自身であった。
 彼は命を捨てて掛ろうと思った。長く自分を苦しめた、圧迫を今日こそ、他に擲《なげう》つことができると思った。
 しかしなお残っているのは、手段の問題であった。彼は最初上意と名乗りかけて、かえって自分が討たれようかと思った。しかし、それでは自分を犠牲にすることが先方に分からぬと思った。彼は二|刻《とき》もの間考え迷った末、次のような手書を認《したた》めた。
「一|書《しょ》進上致しそろ、今日火急の御召《おめし》にて登城致し候処、存じの外にも、そこもとを手に掛け候よう上意蒙り申候。されどそこもとには、天草にて危急の場合を助けられ候恩義|有之《これあり》、容易に刃《やいば》を下し難く候については、此状披見次第|申《さる》の刻《こく》までに早急に国遠《こくおん》なさるべく候。以上」
 そして心利いた仲間を使いに立てた。やがて暮に近い頃、彼は近頃にない晴々しい心地で惣八郎の家を訪うた。
 が、そこにはなんらの混乱の跡がなかった。塵一つ止めてない庭には、打水のあとがしめやかであった。彼は、意外の感に打たれながら、案内を乞うと、玄関へ立ち現れたのは、まぎれもない惣八郎自身であった。惣八郎は物静かな調子で、
「先刻より待ち申してござる」と挨拶した。
 甚兵衛は返す言葉がなかった。主客は、恐ろしい沈黙のうちに座敷へ通った。
 すると、惣八郎の養女が静かに匕首《あいくち》の載っている三宝《さんぼう》を持って現れた。
 惣八郎は居去《いざ》りながら、匕首を取り上げて、甚兵衛に目礼した。
「いざ、介錯《かいしゃく》下されい、御配慮によって、万事心残りなく取り置きました」といいながら、左の腹に静かに匕首《あいくち》の切っ先を含ませた。
 甚兵衛は茫然として立ち上り、茫然として刀を振った。
 しかし、打ち落した首を見ていると、憎悪の心がむらむらと湧いた。報恩の最後の機会を、惣八郎のために無残にも踏み躙《にじ》られたのだと、甚兵衛は思った。
 惣八郎の書置きには、「甚兵衛より友誼《よしみ》をもって自裁《じさい》を勧められたるにより、勝手ながら」とことわってあった。
 君命にも背かず、友誼《よしみ》をも忘れざる者というので、甚兵衛は、一藩の褒め者となった。そして殿から五十石の加増があった。彼はその五十石を、惣八郎から受けた新しい恩として死ぬまで苦悶の種とした。

 その後、享保《きょうほう》の頃になって、天草陣惣八|覚書《おぼえがき》という写本が、細川家の人々に読まれた。そのうちの一節に、「今日|計《はか》らずも甚兵衛の危急を助け申候。されど戦場の敵は私の敵に非ざれば、恩を施せしなど夢にも思うべきに非ず。右後日の為に記《しる》し置候事」とあった。



底本:「菊池寛 短篇と戯曲」文芸春秋
   1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
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