午後十一時すぎ月の出を待って道忠を案内として三河に退陣したが、土寇に苦められながらやっと岡崎に着いた。着いて見ると岡崎城の今川勢は騒いで城を明け退いていたので、元康すて城ならば入らうと云ってここに居った。後永禄五年五月、水野信元のとりなしで信長と清須城に会して連合を約し、幼少から隠忍した甲斐あって次第に勢を伸す基礎を得た。元康、義元への義を想って子の氏真に弔《とむらい》合戦をすすめたけれども応ずる気色もなかった。義元は、信長の為に一敗地にまみれたとは云え三大国を領するに至った丈《だけ》にどこか統領の才ある武将であったが、子の氏真に至っては全く暗愚であると云ってよい。義元が文事を愛した話の一つに、ある戦に一士を斥候に出した処が、間もなくその士が首を一つ獲て帰った。義元は賞せずして反って斥候の役を怠ったとして軍法をもって処置しようとした。
その士うなだれたまま家隆の歌、
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苅萱《かるかや》に身にしむ色はなけれども
見て捨て難き露の下折
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とつぶやいたのを聞いて、忽ち顔の色を和《やわら》げたと云うことである。地方の大豪族である処から京の
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