に兵を間米《まごみ》山に集め義元の首を馬の左脇にさげて、日暮には清須に引上げた。まさに、神速なる行動である。熱田の宮では拝謝して馬を献じ社《やしろ》を修繕することを誓った。
凱旋の翌日、獲《え》た首を検したのに二千五百余あった。下方《しもかた》九郎左衛門が生擒《いけどり》にした権阿弥《ごんあみ》をして首を名指さしめた。
清須から、二十町南須賀、熱田へゆく街道に義元塚を築き大卒塔婆を建て、千部経を読ませたと云う。
義元の野心煙と散じた一方、信長は地方の豪族からして一躍天下に名を知られた。
義元が逸した天下取りのチャンスは、はからずも信長の手に転がり込んで来たのである。
結末並に余説
この戦に於て、敗軍に属しながら、反《かえ》って不思議に運を開いたのが松平元康、後の徳川家康である。元康は五月十九日の朝、丸根を陥《おと》した後大高に居ったが、晩景になって義元の敗報が達した。諸士退軍をすすめたが、元康|若《も》し義元生きて居たら合わす顔がないとて聞かない。処に伯父水野信元が浅井道忠を使として敗報をもたらしたので、元康は部下をしてその真実であることを確めた後、十九日の
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