公卿《くげ》衆が来往することが屡々《しばしば》であったらしく、義元の風体も自《おのず》から雅《みやびや》かに、髪は総髪に、歯は鉄漿《かね》で染めると云う有様であった。その一方には今度の戦で沓掛で落馬した話も忘れられてはならない。しかし、とも角文武両道に心掛けたのは義元であるが、氏真と来ては父の悪い方丈しか継いで居なかった。
 義元死後も朝比奈兵衛大夫の外《ほか》立派な家老も四五人は居るのであるが、氏真、少しも崇敬せずして、三浦右衛門義元と云う柔弱《にゅうじゃく》の士のみを用いて、踊《おどり》酒宴に明け暮れした。自分が昔書いた小説に『三浦右衛門の死』と云うのがあるが、あんな少年ではなかったらしい。自分の気に入った者には、自らの妾《めかけ》を与え、裙紅《つまべに》さして人の娘の美しいのに歌を附けたりまるで武士の家に生れたことなぞは忘却の体である。かの三浦の如きは、桶狭間の勇士|故《こ》の井伊直盛の所領を望んだり、更に甚しくは義元の愛妾だった菊鶴と云う女を秘かに妻にしたりしながら国政に当ると云うのだから、心ある士が次第に離れて今川家衰亡の源を作りつつあったわけである。
 天文二十二年に義元が
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