に何時かと尋ねた。夜半過ぎましたと答えると馬に鞍を置き、湯漬を出せと命じた。女房かしこまって昆布勝栗を添えて出すと悠々と食し終った。腹ごしらえも充分である。食事がすむと牀几に腰をかけて小鼓を取り寄せ、東向きになって謡曲『敦盛』をうたい出した。この『敦盛』は信長の常に好んで謡った処である。「……此世は常の栖《すみか》に非ず、草葉に置く白露、水に宿る月より猶怪し、金谷《かなや》に花を詠じし栄華は先立《さきだっ》て、無常の風に誘はるゝ、南楼の月を弄《もてあそ》ぶ輩《やから》も月に先立て有為の雲に隠れり。人間五十年|化転《げてん》の内を較《くら》ぶれば夢幻の如く也、一度《ひとたび》生を稟《う》け滅せぬ物のあるべきか……」
 朗々として迫らない信長のうた声が、林のように静まりかえった陣営にひびき渡る。部下の将士達も大将の決死のほどを胸にしみ渡らせたことであろう。本庄正宗の大刀を腰にすると忽ち栗毛の馬に乗った。城内から出た時は小姓の岩室《いわむろ》長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎の五騎に過ぎない。そのまま大手口に差しかかると、黒々と一団が控えている。見ると森、柴田を将とした三百
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