問うと、桑原甚内と云い、嘗つて義元が度々遊びに来た寺の小僧をした事があって、義元をよく見知って居るから、願えることなら今度の戦に義元と引組んで首をとりたいと答えた。信長、刀を与えて供に加えた。毛利新助、服部小平太の両人が之を聞いて、この若者につきそって居て義元に出会おうと考えた。
今の時間で丁度八時頃、神宮の南、上知我麻祠《かみちがまのやしろ》の前で、はるか南方に当って一条の煙が、折柄の旭《あさひ》の光に、濃い紫色に輝きながら立ち上るのが見られた。丸根の砦の焼け落ちつつある煙だったのである。人馬を急がせて古鳴海《こなるみ》の手前の街道まで来ると、戦塵にまみれた飛脚の兵に出会った。丸根落ちて佐久間大学、飯尾近江守只今討死と告げるのを信長聞いて、「大学われより一時先に死んだのだ」と云って近習の士に銀の珠数を持って来させ、肩に筋違《すじか》いにかけ前後を顧みて叫んだ。「今は各自の命を呉れよ」と云うが早いか栗毛に鞭くれて馳《はし》り出した。従士達も吾劣らじと後を追うて、上野街道忽ち馬塵がうず巻いた。
丸根が落ちた後の鷲津も同様に悪戦苦闘である。今川勢は丸根に対した如く、火を放って攻めたので、信平を始め防戦の甲斐なく討死して残兵|悉《ことごと》く清須を指して落ちざるを得ない状態になった。時に午前十時頃。
鳴海の方面へ屯《たむろ》して居た佐々政次、千秋|季忠《すえただ》、前田利家、岩室|重休《しげよし》等は信長が丹下から善照寺に進むのを見て三百余人を率いて鳴海方面の今川勢にかけ合ったが衆寡敵せずして、政次、重休、季忠以下五十余名が戦死した。季忠は此時二十七歳であったが、信長あわれんでその子孫を熱田の大宮司になしたと云う。前田利家はこの戦以前に信長の怒りにふれている事があったので、その償いをするのは此時と計り、直《ただち》に敵の首を一つ得て見参《けんざん》に容れたが信長は許さない。そこで、その首を沼に投げ棄てて、更に一首をひっさげて来たが猶許されなかった。後《のち》森部の戦に一番乗りして、始めて許されたと云う。
笠寺の湯浅甚助|直宗《なおむね》と云う拾四歳の若武者は軍の声を聞いて、じっとして居れずに信長の乗かえの馬を暫時失敬して馳せ来り敵の一士を倒して首を得たので、大喜びして信長に見せた処が、みだりに部署を離れたとて叱責された。
惟住《これずみ》五郎左衛門の士、安井新左
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