った。勿論此の裏面には勝元が躍って居るのである。山名宗全、但馬に在って是《これ》を聞き、
「我軍功の封国《ほうこく》何ぞ賊徒の族をして獲せしめんや」
と嚇怒《かくど》して播磨を衝き、次いで義政の許しを得ないで入洛《じゅらく》した。当時此の駄々ッ児を相手に出来るのは細川勝元だけであった。
戦乱の勃発
唯ならぬ雲行きを見て、朝廷は、文正二年三月五日に、兵乱を避ける為め改元をした。応仁とは、
「|仁之感[#レ]物《じんのものにかんじ》、|物之応[#レ]仁《もののじんにおうずるは》、|若[#二]影随[#一][#レ]形《かげのかたちにしたがうがごとく》、|猶[#二]声致[#一][#レ]響《なおこえのひびきをいたすがごとし》」と云う句から菅原|継長《つぐなが》が勧進《かんじん》せる所である。
而も戦乱は、その年即ち応仁元年正月十八日に始まって居るのである。
慎重な勝元は、初めは反逆者の名を恐れて敢て兵火の中に投じなかった。ところが、積極的な宗全は、自ら幕府に説いて勝元の領国を押収せんとした。かく挑発されて勝元も、其の分国の兵を募り、党を集めたのである。
細川方の総兵力は
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