『塵塚物語』と云う古い本に、応仁の乱の頃、山名宗全が或る大臣家に参伺し、乱世の民の苦しみに就て、互に物語ったとある。其の時其の大臣が、色々昔の乱離の世の例を引き出して「さまざま賢く申されけるに、宗全は臆したる色もなく」一応は尤もなれど、例を引くのが気に喰わぬと云った。「例といふ文字をば、向後、時といふ文字にかえて御心得あるべし」と、直言している。
 此《これ》は相当皮肉な、同時に痛快な言葉でもあって、彼が転変極まりなき時代を明確に、且つ無作法に認識して居る事を示して居る。
 宗全は更に、自分如き匹夫が、貴方《あなた》の所へ来て、斯《こ》うして話しをすると云うことは、例のないことであるが、今日ではそれが出来るではないか。「それが時なるべし」(即ち時勢だ)と言い放って居るのである。
 故に共同の敵なる畠山持国を却《しりぞ》けるや、厭《あ》く迄現実的なる宗全は、昨日の味方であり掩護者であった勝元に敢然対立した。尤も性格的に見ても、此の赤入道は、伝統の家に育って挙措慎重なる勝元と相容れるわけがない。
 動因は赤松氏再興問題であって、将軍義政が赤松|教祐《のりすけ》に、その家を嗣がしめ播磨国を賜
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