部下が、却って一揆に参加して諸処に強奪を働いたと云う。
 その乱脈思う可きである。
 亦当時は博奕《ばくち》が非常に盛んであった。
 武士など自分の甲冑、刀剣を質に置いてやった。勢い戦場には丸腰で、只|鯨波《とき》の声の数だけに加わるような始末である。それも昂じて他人の財産を賭けて、争うに至ったと云う。つまり負けたらば、何処《どこ》其処の寺には宝物《ほうもつ》が沢山あるから、それを奪って遣《つかわ》すべしと云ったやり方である。
 こんな全く無政府的な世相に口火を切って、応仁の乱を捲き起したのが、実に細川山名二氏の勢力争いである。
 元来室町幕府にあっては、斯波《しば》、畠山、細川の三家を三職と云い、相互に管領に任じて、幕府の中心勢力となって来た。此の中《うち》、斯波氏先ず衰え、次で畠山氏も凋落《ちょうらく》した。独り残るは細川氏であり、文安二年には細川勝元が管領になって居る。
 一方山名氏は、新興勢力であって、持豊に至って鬱然として細川氏の一大敵国をなして来たのである。持豊は即ち薙髪《ちはつ》して宗全と云う。性、剛腹|頑陋《がんろう》、面長く顔赤き故を以て、世人これを赤入道と呼んだ。

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