い彼が、纔《わずか》に逃避した境地がその風流である。特に晩年の放縦と驕奢には、政治家として落第であった彼の、ニヒリズムが暗澹《あんたん》たる影を投げて居る。
故に表面的な驕奢と秕政の故に、義政を以て応仁の乱の責任者であると断ずるは、あたらない。彼は寧《むし》ろ生《うま》る可き時を誤った人間である。借金棒引きを迫って、一揆の頻発した時代だ。天下既に大変革を待って居たのである。
徳政は元来仁政に発する一種の社会政策である。即ち貝を吹き鐘を敲《たた》いて、徳政の令一度発せられるや、貸借はその瞬間に消滅するのであった。
増大する窮民はその一揆の口実に徳政を称《とな》え、亦奢侈の結果負債に窮した幕吏も、此の点に於て相応じたのである。義政の時代には、十三度も徳政令を出して居る。
「九月二十一日、就中《なかんずく》土一揆|乱[#二]入京中[#一]《きょうちゅうにらんにゅうす》。而《しかして》土蔵其他家々に令乱入《らんにゅうして》、雑物《ぞうもつ》取る。|剰放[#二]火三千余町[#一]焼失《あまつさえさんぜんよちょうにほうかしてしょうしつす》」(『大乗院寺社雑事記』)
加るに鎮圧に赴いた将士の
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