十六万人を算し、斯波、畠山、京極、赤松の諸氏が加った。即ち東軍である。一方西軍たる山名方は一色、土岐、六角の諸勢を入れて総数|凡《およ》そ九万人と云われる。尤も此の数字は全国的に見た上の概算であって、初期の戦乱は専ら京都を中心とした市街戦である。
一種の私闘の如きものであるが、彼等にもその兵を動かす以上は、名分が必要であったらしい。周到な勝元は早くも幕府に参候し、義政に請うて宗全追討の綸旨《りんし》を得て居る。時に西軍が内裏《だいり》を襲い、天子を奉戴して幕府を討伐すると云う噂が立った。勝元は是を聞くや直ちに兵を率いて禁中に入り、主上を奉迎して幕府に行幸を願った。倉卒の際とて、儀仗を整える暇もなく、車駕幕府に入らんとした。所が近士の侍の間にもめ事があって、夜に至るまで幕府の門が開かなかったと云う。こんなやり方は如何にも勝元らしく、爾来《じらい》東軍は行在所《あんざいしょ》守護の任に当って、官軍と呼ばれ、西軍は止むを得ず賊軍となった。
宗全は斯うした深謀には欠けて居たが、実際の戦争となると勝元より遙かに上手だ。
先ず陣の布《し》き方を見ると、東軍は幕府を中心にして、正実坊《しょうじ
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