いと思う。
流石剛頑な山名宗全も、文明五年には齢《よわい》七十である。身体も弱ったのであろう。既に軍務を見るのを好まず、其の子政豊に、一切をまかせて居たのである。此の年の正月、宗全の病※[#「歹+殳」、第4水準2−15−94]が伝えられて居る。
「去《さる》二十一日夜山名入道宗全|入滅畢《にゅうめつしおわる》。其夜同一族大内新助降参方御陣に参候」(『寺社雑事記』)
此の宗全の死も、降服も訛伝であった。併し此の年の三月十九日には、鞍馬|毘沙門《びしゃもん》の化身と世人に畏怖せられて居た宗全も、本当に陣中に急逝したのである。
宗全の死に後《おく》れること約二ヶ月、細川勝元も五月二十二日に病※[#「歹+殳」、第4水準2−15−94]した。時に四十四歳である。即ち東西の両星一時に隕墜《いんつい》したわけである。而も二人の※[#「歹+殳」、第4水準2−15−94]した日は共に、風雨烈しい夜であったと伝う。
戦乱はかくて終熄したと云うわけでない。東軍には尚細川政国、西軍には大内政弘、畠山|義就《よしのり》等闘志満々たる猛将が控えて居る。併し両軍の将士に戦意が揚がらなくなったことは確かだ。
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