以後小ぜり合いが断続したが、大勢は東軍に有利である。先ず山名政豊は将軍に降り、次いで富樫《とがし》政親等諸将相率いて、東軍に降るに至った。蓋《けだ》し将軍義政が東軍に在って、西軍諸将の守護職を剥奪《はくだつ》して脅したからである。
 天文九年十一月、大内政弘や畠山義就は各々その領国に退却して居る。公卿及び東軍の諸将皆幕府に伺候して、西軍の解散を祝したと云う。
 欺くて表面的には和平成り、此の年を以て応仁の乱は終ったことになって居る。
 併し政弘と云い、義就と云い、一旦その領国を固めて捲土重来上洛の期を謀《はか》って居るのである。亦京都に於ける東西両軍は解散したが、帰国して後の両軍の将士は互いに睨《にら》み合って居る。
 つまり文明九年を期して、中央の政争が地方に波及|伝播《でんぱ》し地方の大争乱を捲き起したのである。
 戦国時代は此の遠心的な足利幕府の解体過程の中に生れて来たのである。



底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
   1987(昭和62)年2月10日第1刷
※底本は、物を数える際に用いる「ヶ」(区点番号5−86)(「六ヶ年」)を、大振りにつくっています。
※新仮
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