まま、先に立って案内してくれるのです。噂に違《たが》わないと思いました。大臣だとか大実業家だとか華族などになると、誰も彼もこう手軽には出て来ないのです。給仕に名刺を取次がしても、何だかだと二、三回も給仕の往復があった後、やっと応接室に通されるにしたところが、相手の出て来るのには、早くて十分、遅ければ一時間以上もかかる時があるのです。M侯爵の如く、自身さっさと出てくれるのは、新聞記者からいえば、理想的な人間です。
侯爵は、僕に椅子を与えながら、自分は座らないで、燃えさかるストーブを背にして立ちながら、
「よっぽど寒くなったね。だいぶ押しつまって来たね。今日あたりは何も用はなさそうだが、それとも何かニュースがあるかね」
と、気軽に話の緒《いとぐち》を向うから切ってくれました。
僕は、こういう人たちと会う時に、今でも抜け切れない妙な重くるしい圧迫を少しも感ぜずに、自由に、予期した以上の材料を取ることができました。僕は、杉浦を通じて知った時以上に、M侯爵に感心しました。何という気軽な、いい人だろうと思いました。ところがちょうどその時です。用談が済んでしまうと、侯爵は急に話題を変えながら、
「そうそう君の社だったね。あの若い写真師がいるのは」
と、いいました。ああ杉浦のことをいうのだな、きっと杉浦を褒めるのだなと思いながら、
「そうです、あのまだ二十ぐらいの。杉浦です」
といったのです。すると、
「ああ杉浦というのかね。ありゃ君、うるさくていかんよ」
と、侯爵はちょっと眉をひそめるようにしたのです。僕はよそごとながら胸がどきっとしたように思ったのです。僕には、侯爵の言葉が、全く意外な思いもかけぬ意味を持っていたからです。
「へえ! あれが、杉浦が」
と、僕はおどろいて侯爵の顔を見直しました。侯爵の温和な表情が、ちょっと濁っているように思いました。
「ありゃいかんよ。この間も僕のところへ来てね。御馳走をしてくれとか何とかいってね。家令が取次がないというと、免職させるとか何とかいって家令を脅迫したそうだがね。ありゃいかんね。社へ帰ったら、そういっておいてくれないかね」
と、侯爵は真面目にいいつづけるのです。僕はそれを聞くと何だかいたたまれないような気がして、早々と暇《いとま》を告げて帰って来ましたが、侯爵の言葉は、僕には軽いけれども、ちょっと不愉快な激動を与えたのです。杉浦がいっていることと、まるきり反対なのです。杉浦の言葉に従えば、侯爵ぐらい杉浦に好意を持っている人は、ちょっとなさそうに思われるのです。侯爵に従えば、杉浦は侯爵にとってうるさいいやがられ者なのです。こうした食い違いの原因がどこにあるにしろ、そのこと自身は僕にとって、かなり不愉快なことでした。甲は乙から好意を持たれていると思っている、ところが、その実は乙は甲をいやがっている。それは侯爵と写真師といったような、まるきり階級の違った二人の間の関係でなくて、どんな二人の人間の関係であるとしても、不快ないやな関係であると思いました。
僕は、そうした関係の存在自身からでさえ、心を傷つけられました。かなり不快でした。それがとにかく自分の同僚と、自分が少しでも尊敬していた人との間に存在しているのですから、いっそう不快なわけです。が、いったい責任はどちらにあるのだろうと思ってみました。やっぱり、杉浦のやつの自惚れだ。あいつは、いつかT伯が時計をくれそうだなどと自惚れていたが、とうとう実現しなかったではないか。M侯爵があいつに好意を示したなどというのは、皆あいつの自惚れで、あいつに示すくらいの如才なさは、誰にでも示されているのだ。それを自分にばかり示されるものだと思っているのは、あいつの自惚れに違いない。こう思うと、M侯爵には少しも責任がなく、杉浦にだけ責任があるように思われるのです。が、そうすればすっぽん料理の一件は、どうなるだろうかと思いました。侯爵は、杉浦が家令を威嚇して御馳走の強制をやったようにいっている。あれから見れば、侯爵が杉浦に御馳走する意志がなかったのは明らかである。が、それならば杉浦が突然御飯時に押しかけて行って、御馳走を強制したのだろうか。そうとも僕には思われないのです。いくら杉浦が図々しくても、御馳走の強制に押しかけるほど図々しくないことは、同僚甲斐だけに、あいつのために信じてやりたいのです。すると結局、侯爵に御馳走する意志が本当にあったかないかは別問題として、口先で「フランス料理を食わせてやる」といったことだけは、本当のように思われるのです。それが冗談半分であったか、お世辞であったか、捨て台詞であったか、とにかく侯爵が「フランス料理を食わせてやる。金曜においで」といったことだけは、本当のように僕には思われるのです。
その侯爵の冗談に、愛嬌に、気の早い
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