M侯爵と写真師
菊池寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)触鍵《タッチ》
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 ……君も知っているでしょう、僕の社の杉浦という若い写真師を。君もきっとどこかで、一度くらいは会ったことがあるはずです。まだ若い、二十をやっと出たか出ないかの江戸っ子です。あの男とM侯爵との話です。M侯爵って、無論あのM侯爵です。大名華族中第一の名門で重厚謹厳の噂の高い、華族中おそらく第一の名望家といってもよいあのM侯爵です。第三次の桂内閣が倒れた後に、一時M侯爵が宰相に擬せられたことがありましたね。その時S新聞だったと思いますが、「M侯爵は日本の取って置きの人物だ。有事の日に使用すべき切り札だ。今内閣を組織させるのは惜しい」なんていいましたが、朝野を通じて名望家といえば、あの人以上の人はちょっとありますまいね。重厚謹厳で一指も軽々しく動かさないという風がありながら、日常は至極平民的で如才なく、新聞記者などにもあのくらい快く会ってくれる人は、ちょっとありますまい。駆け出しの記者は会ってくれさえすれば、誰でも善人に見えてしようのないものです。僕なども石の缶詰をこしらえたなどという悪評のある某実業家が快く会ってくれたために、その当座はばかにその人が好きになったことがありましたよ。とにかく、杉浦のような小僧あがりの写真師が、M侯爵と知己になるなんて、全く侯爵が平民的ないい人だからです。またこの杉浦というやつが、図々しくって押しが太くて、鼻柱が強くて、大臣宰相でも、公爵でも、何の遠慮もあらばこそ、ぐんぐんぶつかって行く男なのです。
 一体、杉浦だけではありません。およそ世の中で図々しい押しの強い人種といえば、おそらく新聞社の写真班でしょう。世間では新聞記者を、図々しい人間の集まりだと思っているようですが、この頃の記者は、皆相応に学問もあって、自分自身の品格というものを考えていますから、相手にいやがられるほど図々しく出るなどということはまずないと思います。そこへ行くと写真班の連中です。見栄も外聞もあったものではありません。何でもかでも「撮ったが勝」です。いつか、日本で客死したルーマニア公使の葬式が、駿河台のニコライ堂で行われた時でした。まだ若い美しい未亡人が、祈祷の最中に泣き崩れているところを何の会釈もあらばこそ、マグネシウムをボンボンと焚きながら、各社の連中が折り重なって撮るのです。同じ、新聞社に籍を置く僕さえも、あの時ばかりは苦々しく思いました。死者に対する礼儀も、喪者に対する礼儀もあったものでありません。ああなると全く人道問題ですね。が、それかといって、撮る方は大事な職業で、ことに社と社との競争の激しいこの頃ですから、他社に少しでも写真が劣ると大変ですから、皆血眼になっているのです。場合がどんな厳粛な場合であろうが、あるまいが、かまってはいられないのです。またいつか、上野音楽学校で、遠藤ひさ子女史のピアノ独奏会があった時です。何でもあの人が、重病の床から、免れて再び楽壇に復帰するという記念演奏会で、大変な盛会でした。ところが、会場の都合か何かで、写真師には会場だけは絶対に写させないということになっていました。写真師たちは、遠藤女史だけを写したものの、会場の模様が写せないものですから、皆ブツブツいいながら帰って行きました。やがて、華美な裾模様の紋服を着た女史が、病後のやつれを見せながらプラットフォームに現れると、見物はやんやという大歓呼です。女史がはなやかな微笑でそれにこたえながら、ピアノに向うと、ちょっと楽譜に手をやった後、渾身の力を、白いしなやかな指先にこめて、爽やかな最初の触鍵《タッチ》を下ろそうとした時です。聴衆の耳も目も、遠藤女史の白い指頭に集まっていた時です。広い会堂が、風の落ちた森林のような静けさを保っている瞬間です。静かな、しかしながら力の満ち満ちた瞬間です。ドカン! という凄まじい音が、聴衆の耳を襲ったと同時に、廊下に面した窓の所に、濛々たる白い煙が、湧いていました。聴衆の過半数は、あっとばかりにおどろいて立ち上りました。中には声を立てた者さえありました。なに、忍び足に帰って来た写真師が抜け駆けの功名をやったのです。それと分かると演奏者も、聴衆もあっけに取られて、しばらくは拍手抜けがしたように黙っていましたが、さすがに憤慨した連中があったとみえ、二、三の人たちは、写真師を怒鳴りつけました。が、先方は撮ったが最後「後は野となれ山となれ」です。カメラを手早く収めて、こそこそと逃げ出したすばしこさに、聴衆はまたひとしきり笑いました。写真師の目には、芸術も何もあったものじゃありません。話は違いますが、高貴の方の御着発の写真などは、警察でなるべく写させないようにしても写真師の方では、是が非でも写さねばおかないのです
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