一本調子の杉浦が、有無をいわせず、食いついたのです。世の中に、お世辞食いというやつがありますが、杉浦のやつは全くそれを文字通りに実行したのです。僕は、そう考えてくると、お世辞にいったことを真に受けて、時刻も違《たが》えず、家令を脅迫してまで、まかり出た杉浦を相手に、侯爵が否応なしに、おそらく眉をひそめながら、すっぽん料理に箸をつける光景が、滑稽なカリカチュアのように頭の中に浮んできました。
そう考えてくると、またこうも考えられるのです。侯爵は、平民的な侯爵は、侯爵に追従する人々に、きっと杉浦にいったようなお世辞をいっているに違いないと思われるのです。
「どうだい、今度の日曜あたり、ちっとやって来ないかね、うまいすっぽんが来ているのだがね」
こうしたお言葉だけをいただくと、周囲の人々は恐縮してありがたがるのだろうと思うのです。言葉の実行などは問題じゃないのです。ただそうした言葉だけを、ありがたく頂戴して引き下るのだろうと思うのです。こうした連中に接しているうちに、侯爵もついついそうした言葉だけを振りまくのに馴れてしまったのだと思うのです。「フランス料理を食いに来い」というと、皆ありがたがりながら、そのくせ誰も来ないので、M侯爵もいつの間にか、言葉だけで――実行の意志のない言葉だけで人を欣ばせるようになったのではないかと思うのです。
ところが、相手が悪かったのです。むきな正直者の杉浦は、侯爵がどんなに名望があろうとも、地位が高かろうとも、その言葉だけでは満足しなかったのです。やっぱりフランス料理を本当に食いたかったのです。
ここまで申したならば、その時の僕の心持が、どちらに団扇《うちわ》を揚げたかは、お分かりになるだろうと思います。侯爵とか写真師とかいう、そういう社会上の区別をすっかり洗ってみると、相手の言葉を文字通りに信ずるということは、人間として尊いことではないかと思うのです。心にもないことを相手にいい、いったことに対して責任を持たない者よりは、人間として尊くはないかと思われるのです。僕は、そんなに思いながら、社に帰って来ました。が、たとえ根本的にはどちらに責任があるにしろ、M侯爵が杉浦を嫌っている以上、何とか婉曲に、杉浦にあまり侯爵のところへ行かないように忠告してやろうと思っていたのです。
が、社に帰ってみると、杉浦はカメラ入りのズックを肩にかけながら、ちょうど出かけようとしているところでした。僕の顔を見ると、
「やあ! M侯爵に会いに行ってたって。僕はこれから写真を撮りに行くんだ。どうだい! いい人だろう。あんないい人はないぜ。華族会館にいるんだって。じゃすぐ撮って来よう」
と、いい捨てるとドンドン音をさせながら、勢いよく階段を駆け降りて行きました。
M侯爵に嫌われているなどとは夢にも思わず、よろこび勇んで、M侯爵を撮りに行く杉浦の後姿を見ていると、妙に可哀そうに思いました。
杉浦が行けば、またきっとM侯爵は、「うるさい」などといった口をぬぐって、如才のない言葉を掛けながら、気軽にカメラの前に立つのだと思うと、僕は、今までかなり尊敬していたM侯爵が何だかいやになりました。
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:久保あきら
1999年9月19日公開
2005年10月12日修正
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