かけて来たらしく私の用をしていた出方が、
『もし奥様、ちょっと』と云うじゃありませんか。元来私は後家暮しはしていたものの、髪を切らないばかりでなく、勝山《かつやま》に結ったり文金の高島田に結ったりしている上、それで芝居に出這入《ではいり》するようになってからは、随分意気な身装《みなり》をしていたから町家の奥様とも見えれば、旗本のお妾《めかけ》さんのようにも見えたのでしょうよ。私が、
『何か用かい』と立ち止って聞くと、出方は声を低めながら、
『あの染之助さんが、是非|一寸《ちょっと》奥さんにお目にかかりたいと云うのですが、……』と、モジモジ揉手《もみで》をしながら云うのでした。もし、その時、出方が『あの犬塚信乃さんが』とでも云ったら、私は二つ返事で会いに行ったかも、知れなかったのだけれど、染之助と云うと、直ぐ馬道であった色の蒼黒い小男の顔が、アリアリと眼の前に浮んで来て、逢う気はしなかったのですよ。私は、可なり冷淡に、
『何の御用か知りませんが、御免を蒙《こうむ》りたいと云っておくれでないか』と、云いました、舞台姿はあんなに私の心を囚《とら》えていながら、役者その人は恋しいとも何ともない
前へ 次へ
全33ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング