うな、深い失望と嗟嘆《さたん》とに暮れてしまいました。その当座と云うものは、私はよく動作を間違えたり、台詞《せりふ》が誤ったり気の短い座頭《ざがしら》から、よく『間抜め! 気を付けろ!』と云ったような烈《はげ》しい言葉を浴びせかけられたりしました。が、私は急に魂を奪われた人間のように、藻抜《もぬ》けの殻の肉体だけが、舞台の上で操《あやつり》人形のように、周囲の人達の動くのに連れられて、ボンヤリ動いていたのに過ぎませんでした。世間からは、男地獄のように思われている俳優の一人である私は、今までも随分恋もし、女も知っているのではありますが、私の心の底までも動かして、強い一生懸命の恋をしたのは、これが初めてでございます。しかも、私はその懸命必死な恋に、破れた訳でありますから、その当座はかように落胆失望致したのも、無理はございません。ところが、いかがでございましょう。貴女の事を段々思いきり、貴女が私を思って下さると思ったのは、私の飛んでもない心得違いだったと、漸《ようや》く諦《あきら》めかけていた時でした。私はふと――左様でございます。あれは確か、私が八犬伝の信乃で舞台へ出た時であります――見物席の方を眺《なが》めますと、何時もとは異《ちが》って、平土間の見物席の辺《あた》りが神々《こうごう》しく輝いているように思ったのであります。これは私が大仰に申すのではありません、実際に私はそう感じたのであります。あああの御婦人が来て下さったなと、私は直ぐ感づいてしまいました。私は犬飼現八と立ち廻りをしながら、隙《ひま》を窃《ぬす》んで、見物席の何時も貴女が、坐っていた辺りを見ますと、私の感じは私をあざむい[#「あざむい」に傍点]てはおりませんでした。小石のようにゴタゴタ打ち並んだ客の中に、夜光の球のように貴女のお顔が、辺を圧してとも申しましょうか、白々と神々しく輝いていたではありませんか。しかも、あの二つのお眸が美しい私の身に取っては、懐《なつか》しさこの上もない光を放って、犬塚信乃になった私の身体《からだ》を、突き透すほどに鋭く、見詰めておられるではありませんか。それは、明かに恋の瞳《ひとみ》です。恋に狂っている女の瞳です。私は貴女から手酷く拒絶せられたのを忘れて、やっぱり貴女は私を思っていて下さるのだと、考えずにはいられませんでした。が、あの日私が又々|無躾《ぶしつけ》を申して、貴
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