愚な私は貴女が私を恋して下さるものだとばかり思って、どれほど自分自身を幸福な人間だと、考えたことでしょう。私は、見物から、余り喝采《かっさい》も受けませんでしたが、貴女の二つのお眸が、私の動作を、じっと見ていて下さるのだと思うと、千人の見物から喝采せられるよりも、どれほど嬉《うれ》しかったか知れません。その中に、私自身貴女の眸の力が、私の心の奥深く日に増し、貫いて来るのを感じました。私は、役者として長い間、色々な女性にも接して来ましたが、貴女ほどの美しさを持った方に一度も逢《あ》ったことがないように、思い始めたのです。何時《いつ》の間にか、私は貴女をお慕い申すようになっていたのです。私は貴女のお姿が見えない時は、見物席がどんなに一杯であろうとも、芝居をするのに少しも力が入らないのです。又それと反対に、どんなに入りが少い時でも、貴女のお姿が平土間の一隅《いちぐう》に見えますと、私は生れ代ったような力と精神とで、私の芸を演じました。そして、私の動作につれて貴女のお眼の色が、輝いて来るのを見て、どんなに幸福を感じたでしょう。私が舞台の上で歎けば、貴女もお歎きになり、私が舞台で笑えば、貴女もお笑いになるのを見て、私はどんなに嬉しく思ったでしょう。私は、貴女が私を愛していて下さることと信じて疑いませんでした。そして、貴女が私に恋を打ち開けられるのを、じっと辛抱して待っていました。が、私の期待は外ずれて、貴女は仲々その堅い蕾《つぼみ》を、お開きにならないように、私には思われたのでした。私は、到頭自分自身の方から、切ない恋を打ちあける手段を取りました。ところが意外にも、それは貴女に依《よ》って手酷《てひど》い、少しの同情もない、拒絶にあってしまったのでした。私は、大変な思違いをしたと思いました。私は、貴女が私を愛して下さるものと、そのとき思い詰めていたのでした。貴女が、私を見詰めてて下さると思ったのは、皆自分の迷いで、普通の見物が役者を見詰めるのと同じ意味で、貴女も私を見詰めておられたのだと思うと、私は自分の思違いが、穴にでも入りたいように、恥しく思われたのです。私はその事があって以来、暫《しばら》く貴女のお姿が、見物席に見えなかったので、愈々《いよいよ》私の思い違いを信じ、貴女が私の無礼をお怒りになり、あれきりお姿をお見せにならなくなったのではないかと思うと、私は身も世もないよ
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