ぬかと思うと、今まで自分の眼の前にあった華《はな》やかなまぼろし[#「まぼろし」に傍点]が、一度に奪い去られるような淋しさを感じました。が、その噂は、時が経つに連れて本当だと云うことが分りました。
 私は、お名残だと思ったものですから、その興行は、二日|隔《お》き位に足|繁《しげ》く通いました。その時の狂言は、義経千本桜《よしつねせんぼんざくら》で、染之助はすし屋の場で、弥助――実は平維盛《たいらのこれもり》卿になっていました。私は、あの召使に身を窶《やつ》しながらも、溢《あふ》れるような品位を持った維盛卿の姿を、どれほど懐しく見守ったことでしょう。私は、維盛卿に恋をするすし屋の娘をどれほど、羨《うらやま》しく思ったでしょう。しかも、私はこの維盛卿が、私の眼に写る染之助の最後の姿だと思うと、更に懐しさが胸に一杯になるのでした。
 ところが、この狂言が段々千秋楽に近づく頃でした。染之助の舞台姿に別れる私の悲しさが、段々私の小さい胸に、ひしひしと堪《こた》えて来る頃でした。私がある日、すし屋の幕が終ると、支度もそこそこに帰りかけると少しも顔馴染のない役者の男衆らしい男が、私を追っかけて来て、
『染之助親方が、これは御ひいきに預りましたお礼のしるしに、差上げる寸志でございますから、まげてお受納下さいますようと申しておりました』と、云いながら、紫縮緬《むらさきちりめん》の小さい袱紗包《ふくさづつみ》を出すのでした。染之助と云う役者には、少しも興味のない筈《はず》の私も、やっぱり染之助の舞台に、名残が深く惜しまれたためでしょう。無言で黙礼しながら、その袱紗包を貰《もら》いました。何か染之助の紋の入った配り物だろう位に、思っていたものです。が、家へ帰って来て、開けますと、中から出たのは、思いがけなく一通の手紙でした。それには、役者とは思われない程の達筆でこまごまとかいた長い文句がありました。もうたしかな事は忘れてしまったが、何でもこのような意味の事が書いてあったのでした。
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 過ぐる二年あまりの年月の間に、貴女《あなた》様はその美しい二つのお眸《ひとみ》で、私を悩み殺しにしようとなさいました。貴女は私を恋していて下さるのでもなければ、それかと云って憎んでおられるのでもない。ただ長い間、私を弄《もてあそ》んでおられたとより外には、考えようもありません。初め、
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