うになだらかな平和な心持を持つことが出来るようになりました。私は再び現在の司法制度なり刑法なりに対し、ある感謝の心持を懐《いだ》かずには居られませんでした。
 司法大臣閣下。
 もし事件が此のままで終ったならば、私はかかる書状を閣下に呈出する必要は少しもなかったのであります。
 ところが坂下鶴吉が処刑されてから一年も経った此の頃であります。私は新聞の広告に依って、ふと、『坂下鶴吉の告白』なる一書が、ある弁護士の努力に依って、上梓《じょうし》されたのを知りました。私は、坂下鶴吉なる人間の痕跡が世の中に公々然と発表されることが少し不快でありました。被害者の多くが彼の兇害なる打撃に依って、世の中から永劫に葬られ、墓穴の下に黙々たる無名の骨を朽ちさせて居るのにも拘わらず、坂下鶴吉の告白なるものがとにも角にも書冊の形式に依って公表され、彼が如何なる形式に於ても彼の思想を披瀝し得ると云うことは、私にとっては可なり不当のように思われましたが、そんなことはなんでもありません。私は『坂下鶴吉の告白』なるものを、読むに当って、私は国家の刑罰なるものが、此の男に依ってその効果を蹂躙され、彼は彼自身に適《ふさ
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