和してやると云うことは甚だ不当な片手落なことだと考えずには居られません。坂下鶴吉はその告白の中に、こんな事を申して居ります。『私は今日では、有難い事には主イエスキリストの御慈愛に依りてこの身も心も共に救われた為に、今日の監獄生活は他の在監者が日々夜々煩悶に苦痛を重ねて、心の中では男泣きに涙を滾《こぼ》して居りますが、私はそれと反対で日々夜々何一つの不安をも感ぜず、喜ばるるばかりでございます。これと申しますのも、嚢《さき》に申しました通り、他人《ひと》様から御覧下されば、何も有せざるに似たれどもすべての物を有するのでございまする。そこで私達が造った品物や金銭は使えば無くなりますに依って、限りがありますが、神様から私は頂きましたすべての物がありますから、如何程沢山に使いましても、それは無くなると云うことはなく無限でありまする。以上申述べましたのは、私の肉体上の生死を述べたのではございません。肉体の生死と云うことは今日では頭に置きませぬ』と、又こうも申して居ります。
『基督教信者は神様よりほかのものは、如何なるものにても、恐れませんのは、私がただ口実を以て申すのではございませぬ。マタイ伝に「身を殺して魂を殺すこと能わずる者を懼るる勿れ」と、あります。之が確かな宣言でございまする』
 以上、坂下鶴吉の言葉に依りますと、彼は監獄に在ってキリスト教の信仰を得た為に、彼の強盗時代よりも、もっと幸福に暮したようであります。そして死刑を少しも恐れて居ないことは、『身を殺して魂を殺すこと能わざる者を懼るる勿れ』と、申して居ることで明かであります。もし国家の監獄が基督教の修道院でありますれば、之で結構であるかも知れませんが、監獄が国家の刑罰の機関である以上、監獄に繋ぎながら、囚人を彼らの罪悪時代よりも幸福にし、刑法を、『身を殺して魂を殺し得ざるものとして』何等の威力なからしめて、それ監獄の目的死刑威力が発揮せられるでしょうか。
 私は、よくは解りませんが、ある法学者から刑罰の目的に就いては、相対主義と絶対主義と、二つあるのだと云うような事を聞いたことがありますが、キリスト教の信仰さえ得れば監獄も幸福に、死刑も懼るに足らずと云うことになっても、刑罰の目的は立派に達せられて居るのでしょうか。又囚人が幸福に禁獄され欣々然として処刑されると云うような心持を、典獄なる職務にある人が讃美しても差支え
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