ないものでしょうか。禁獄とか死刑とか現世的な刑罰が、宗教の信仰に依って其の効果を滅茶滅茶にされて居るのに拘わらず、その現世的刑罰の執行機関に長たるものが感賞の言葉を洩してもよいものでしょうか。『坂下鶴吉の告白』なる本に依りますと、典獄とか検事とか云う連中が、坂下鶴吉の信仰を獲たことを宛《あたか》も猫が鼠を取ったのを賞めるように、賞めそやして居ります。国家の刑罰なるものは肉体にさえ課すれば、その囚人が心の中ではその刑罰を馬鹿にして居ようが欣んで居ようが、措いて問わないものでしょうか。犯罪なるものが、被害者の肉体のみならず、精神をもどんなに苦しめるかを考えたならば、囚人が刑罰の為に肉体的にも精神的にも苦しむと云うことが云わば至当な事ではないかと思います。私の如き遺族の数多くが肉親を殺された為に悶々の苦しみに苦しんで居るにも拘わらず、その加害者が監獄の中でも幸福な生涯を送り、絞首台上に欣々然として立つことを、典獄迄が讃美するに至っては被害者なり被害者の遺族なりは一体どう思えばよいのでしょうか。
殊に、この書に『看守と巡査とに説教』なる一項があります。キリスト教の立場から云えば会心のことかも知れませんが、国家の刑罰機関の役員が、刑罰の客体から、説教を受けるなどに至っては、寧ろ醜体ではありますまいか。
坂下鶴吉が、国家の刑罰を受けて悪人に適《ふさ》わしい最期を遂げただろうと、想像することに依って、僅かな慰めを受けて居た私は、此の告白を読んで、自分の感情を散々に傷つけられてしまいました。姉夫婦の恨みや、私達遺族の無念は何処に晴されて居るのでしょうか。刑罰の目的に就ての学説はどうか知りませんが、私達の復讐心が、国家の刑罰機関の活動に依り、正当に適法に充たされることだと信頼して居た私達良民の期待は、全く裏切られてしまいました。私の姉夫婦を惨殺した人間は笑って絞首台の上に立って居るのです、懺悔をして居るのだ、許してやってはどうかと云う人があるかも知れませんが、私は基督教徒《クリスチャン》でありません。殊に坂下鶴吉の如き悪人を許せよなど云う人は、未だ自分の親愛なる人間を、強盗に依って惨殺された経験のない人です。自分の肉親の姉が、虚空を掴《つか》み、目を刮《みひら》き舌を噛み、衣服もあらわに惨殺された現場を見た私に取って、その兇悪な下手人を許すなどと云うことは、夢にも思われない事です
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