の看視の下に遂げて居ることを知ったらなんと申しましょう。こんな不公平な不合理な処罰が世の中にあるでしょうか。
もしも、坂下鶴吉の欣々然たる最期が、――国家の刑罰に対してなんの恐怖をも感じない態度が、彼の悪人としての根性から自発的に出たものならば、私はなんとも申しません。九人の人間を殺しながら欣々然として絞首台上に立ち得るような恐ろしい人間に姉夫婦が殺されたことを、不幸中の不幸と諦めるほかはありません。が、坂下鶴吉のかかる態度は彼の自発的のものではなくして、彼が在監中キリスト教に改宗した結果なのであります。私は、今ここでキリスト教そのものに対してなんの非難をするのではありません。キリスト教が罪人の教化に努めようとすることは、当然なことかも知れませんが、キリスト教の感化が、本当に効果を示して坂下鶴吉の場合の如く、絞首台に上ることが天国へ行く梯子段にでも上るようになっては、それで刑罰の目的が達せられるでしょうか。世の中に於て、多くの人間を殺し、多くの婦女を辱《はずか》しめた悪人が、監獄に入ると、キリスト教の感化を受け、死の苦悶を少しも感ぜず、天国へでも行く心持で、易々と死んで行っては、刑罰の効果は何処にあるのです。キリスト教にとっては、如何にも本懐の至りかも知れませんが、その男に依って、殺され辱しめられた多くの男女、もしくは私の如き遺族の無念は何処で晴らされるのです。幸にしてすべての被害者やその遺族が悉《ことごと》く基督《キリスト》教徒であり、左の頬を打れた時には右の頬を出すような人や、敵を愛し得るような人であれば坂下鶴吉の改宗を欣び、彼の欣々然たる死刑を欣んだでしょうが、私の如く姉夫婦を鶏か何かのように惨殺され、母までをその為に失ったものに取っては、坂下鶴吉が刑罰の効果を適当に受けることは、内心の絶対な要求であります。私は国家の善良な臣民として其事を、要求する権利があると思います。刑罰の効果が、宗教的感化に依って薄弱となっては堪らないと思います。世の中に『死ぬ者貧乏』と云う諺があります。坂下鶴吉の殺した人達は、私の知る限りでは、国家の良民であります。然るに、被害者なり被害者の遺族なりが国家の手に依って毫頭慰藉《ごうとういしゃ》を受けて居ないのにも拘らず悪人でも、坂下鶴吉の如き悪人でも生きて居る者には、宣教師との接見を許し、その改宗を奨励し、死刑の精神上に及ぼす効果を緩
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