うになだらかな平和な心持を持つことが出来るようになりました。私は再び現在の司法制度なり刑法なりに対し、ある感謝の心持を懐《いだ》かずには居られませんでした。
司法大臣閣下。
もし事件が此のままで終ったならば、私はかかる書状を閣下に呈出する必要は少しもなかったのであります。
ところが坂下鶴吉が処刑されてから一年も経った此の頃であります。私は新聞の広告に依って、ふと、『坂下鶴吉の告白』なる一書が、ある弁護士の努力に依って、上梓《じょうし》されたのを知りました。私は、坂下鶴吉なる人間の痕跡が世の中に公々然と発表されることが少し不快でありました。被害者の多くが彼の兇害なる打撃に依って、世の中から永劫に葬られ、墓穴の下に黙々たる無名の骨を朽ちさせて居るのにも拘わらず、坂下鶴吉の告白なるものがとにも角にも書冊の形式に依って公表され、彼が如何なる形式に於ても彼の思想を披瀝し得ると云うことは、私にとっては可なり不当のように思われましたが、そんなことはなんでもありません。私は『坂下鶴吉の告白』なるものを、読むに当って、私は国家の刑罰なるものが、此の男に依ってその効果を蹂躙され、彼は彼自身に適《ふさ》わしい恥多き苦しみ多き刑死を遂ぐる代りに、欣《よろこ》びに溢れ光栄に輝き凱旋的にこの世を去ったことを知って、私は憤忿の念に堪えないのであります。
彼の手にかかった被害者のすべてが、無念の中に悲憤の中に、もだえ死、もがき死んだにも拘わらず彼坂下鶴吉は、欣々然として絞首台上に立ち、国家の刑罰そのものに対してなんらの恐怖を示さず、何等の羞恥をも示さず、自若《じじゃく》として死んだことを知って私は実に憤忿の念に堪えないのであります。しかも典獄なる人までが、その最後の情景を叙べて、『罪の重荷を投げ下して、恋しき故郷に旅立ち帰る心持にて、喜色満面勇み立ったその姿は、坐《そぞ》ろに立会の官吏達を感歎せしめざるはなかったと申します』云々と、まるで決死隊の勇士を送るような讃嘆の言葉を洩して居ます。もしも私の義兄の角野一郎、此の坂下鶴吉に後手で縛り上げられ、絞殺されてもがき死んだ私の義兄の角野一郎が、此の処刑の情景を見たらばなんと申しましょう。自分の目前で夫を絞め殺され、相次いで自分自身を絞め殺された私の姉が、此の情景を見たらなんと申しましょう。彼等を殺した悪人が、彼等よりも十倍も百倍も幸福な死を国家
前へ
次へ
全19ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング