ませんか。生きていて血の通っている人間じゃありませんか。お母さまは夜中ふと目をさまして、自分の手で自分の胸を抱いてみるようなことはおありにならないのですか。道端の小さい花をみて生きていることの嬉しさがおさえきれないというようなことが一度でもおありにならないのですか。お母さまは……。
けい (いきなり、ぴしゃりと知栄の頬を打つ)
知栄 (驚いてちょっとの間けいの顔をみている)
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章介、入ってくる。中の有様にこれもちょっとまごつく。
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章介 どうしたんだね。
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知栄、いきなり立ち上って馳け出そうとする。
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章介 おい。どこへ行くのだ。
知栄 私はお父さまの所へ行きます。これからお父さまと一緒に暮すんです。
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出てゆく。
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章介 知栄。おい、知栄。……行ってしまった。
けい ……。いいんです。その方があの子の為にもいいのです。私は前からそう思っていました。これで私はほんとにひとりになってしまいました。何だか却《かえ》って、さっぱりしたような気がします。叔父さま、あなたも今度こそ行っておしまいになるんでしょう。さあ、いらっしゃい。私はもう驚きません。
章介 ところが、俺はもう決して、お前の傍から離れることはないだろう。世界中の者がお前から去って行っても俺はお前の傍についているだろう。
けい そうですか。何方でもいいんですがね。栄二さんは共産党員だったんだそうですよ。知栄は、自分が何をいっているんだか、自分でもわかってやしないんです。私は自分のやったことが間違っているとは思いません。それだのに私は、知栄にあんな風にいわれると、どきんとするのです。他の人がやったら立派な行《おこない》で通ることが、私がやるとみんな厭味で鼻持ならないことになってしまうんですね。出しゃばりでひとりよがりで冷たくて人間味がなくて……私にはそれがだんだんわかってくるのです。それでいてどうにもならないのですよ。皆が私から離れてゆくのが当り前だという気がするのです。私は、自分で自分がだんだん嫌になってくるのですよ。
章介 何をいうんだ。あんたが今そんなことをいい出してどうする。俺は、あんたのお蔭で初めて人間というものを信じることが出来るようになったと思っているくらいだ。そのあんたが今更自分を信じることが出来んなんて、そんなばかなことがあるもんか。おけいさん、しっかりしなくちゃいかん。あんたは俺にとっちゃ……。(肩をおさえ……急に手を引き、そのまま縁側の方に立っている)
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黄昏の色が濃い。
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[#地から2字上げ]幕
第五幕の一
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昭和十七年正月の昼。
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舞台、前幕とほぼ同じ。椅子、家具を入れ終った所の感じ。けいが、職人井上と女中の清を指図している。
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けい その机はも少し向うへ押した方がよかないかしら。
井上 これですか。
けい ええ、そう。清、ちょっと手を借して上げなさい。
清 はい。
井上 これで、如何《いかが》です。
けい いいでしょう。結構ですね。
井上 戸棚は、此処で、よろしゅうござんすか。
けい そうね。何《いず》れ、当人達が又勝手のいいように直すでしょうから……。
井上 随分古いものですね。こりゃあ。
けい 何しろ明治何年というのですから。
井上 そうでしょう。今出来の物とは違います。じゃ、先代がいらした頃ので。
けい 私がまだ、この家へ来ない時分からあったわけですからね。
井上 へえ。そんな古いものが、よくとってあったものですね。
けい 壊そうったってあなた、この頑丈さですもの。どうにもなりません。私もこの間蔵の中へ入ってみてびっくりしたのですがね。何が役に立つか、わかったものじゃありません。
井上 無駄なものってものはないもんですね。
清 あの、他に用意しておくものはございませんでしょうか。
けい そうですね。何しろ、勝手の違う人達のことだから私にもわからないよ。後は当人達が来てからのことにしましょう。
清 召し上りのもののことやなんか、如何《どう》すればよろしいのでしょうか。
けい まあまあ、そう、いっ時にいわないで下さい、そっちの方のことになると尚見当がつかないのだから。
清 では、このままにしておいてよろしゅうございますか。
けい ええ、後のことは後のことで、また考えましょう。女の子ばかりだから、案外自分達でよろしくやってくれるかもしれませんよ。
清 さよでございますね。では……。
けい あ。御苦労さま。
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清、去る。
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井上 なんですか。支那からのお客様ですか。
けい ええ。
井上 ははあ。長い御逗留《ごとうりゅう》で。
けい ええ。少し長くなると思うんですよ。ひょっとすると、ずうっとこの家の人になるかもしれないのですが……。
井上 そりゃそりゃ。向うの人とくると、言葉も分らないだろうし、お大抵じゃありませんなあ。
けい いいえ、言葉は、片親が日本人ですから、案外平気なんだろうと思うんですがね。何しろ毎日の習慣や、衣食がねえ……違うでしょうから……。
井上 そうでしょうとも。同じ日本人同志でも土佐の人間と越後の人間じゃ、毎日のしきたりってものがこれ、随分違うものでしてね。私なんぞも、仕事の上で仲間と一緒に旅へ出ることがよくありますがね、びっくりして笑っちまうようなことがよくありますよ。
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清。
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清 あの奥さま。横浜の、伸一郎様と仰言しゃる方が……。
けい え? 誰が?
清 よく、わからないのでございますが、伸……何とか仰言しゃいました。
井上 こりゃ、とんだおしゃべりをしてしまって……では私はこれで。
けい 御苦労さま。まあ、お茶でも召し上がって行って下さい。清、頭《かしら》にお茶を。
井上 いえいえ。もう、結構でございます。私はこのままの方が勝手で……じゃ……。
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庭から去る。
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けい それで、旦那様は?
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と行きかける時、伸太郎。
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伸太郎 いいかね、入っても。
けい お帰んなさいまし。お迎えもしないで……。
伸太郎 ああ。しばらくだった。変りはないかね。
けい お蔭様で。あなたの方も……。
伸太郎 お蔭でね。
けい それは結構でした。あの、此処は火がありませんから、茶の間の方へでも参りましょうか。
伸太郎 いや。ここでいいよ。この部屋は昔から日当りのいい部屋だ。ここで日に当ってれば火鉢はいらん。
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縁側へ出て坐る。
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けい そうですか。じゃ。お前はいいよ。
清 はい。
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去る。
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伸太郎 新らしく来た子かね。
けい 前にいたのが母親が病気とかで暇をとりましたので……。無しでやってやれないことはないのですが。
伸太郎 いや、これだけの家に女中無しじゃ掃除だけでも大変だ。店の方も戦争が始まるとまたいろいろと大変だろう。
けい はあ。どうなってゆきますことか……でも私は大分前からそのつもりで仕度をしてきましたから……あの……もっと此方へいらっしゃいませんか。何ですか端近《はしぢか》で……。
伸太郎 うん。いや……いいよここで……、本郷の何は……元気なんだろうね、相変らず。
けい はあ。お変りないだろうと思うのですが、この所ちっともお便りがないもので……。
伸太郎 ちっともみえないのかい、此方へ。
けい ええ。もう随分前から……。
伸太郎 どうしたのだろうな。便りがなければ此方から行ってでもみなくちゃいけないな。
けい そうですね。そういたしましょう。……あの、学校の方へは、その後ずうっと出てらっしゃるのでしょうか。
伸太郎 う……ん。まあね。
けい 何だか、お顔の色がはっきりしないようですけど、何ともないのですか。
伸太郎 そうかな、ここんとこちょっと溜《たま》っていた仕事を一遍にしたものだから疲れが出ているのだよ。……栄二の子供達はまだ来ていなかったのだね。
けい 山田さんが門司迄迎えに行ったのですが、船の都合で一日遅れると、今朝電報を打って寄越しました。明後日くらいになるかと思っています。あなたのお指図も待たないで差出たことをしまして……。
伸太郎 そんなことはないさ。親爺はいないおふくろに死なれるじゃ、あの連中も心細いだろうからね。しかし、お前はよくよく人の世話をするように出来てるのだな。
けい ……。(首を垂れる)
伸太郎 ところで世話ついでと言っちゃ何だが、今日は一つ頼みがあるんだが。
けい なんでしょう改まって。
伸太郎 知栄のことなんだがね。
けい 知栄がどうか致しましたのですか。
伸太郎 今朝起きぬけに松永君がやって来て、とうとう来ましたって言うんだよ。
けい と言うと。
伸太郎 応召だよ。
けい でもあの人はもう少しで予備に入るくらいでしょう。
伸太郎 今来ているのは皆その辺らしい、三十七八と言ったところらしいんだよ。
けい それじゃあの子も大変ですね。此の間バスの窓から一寸姿を見ました。二人の子供を歩かせて何だかとても倖せそうに見えました。次の停留所で降りてみようかと思ったけれどやっぱり其のままにして帰りましたが。
伸太郎 ……。
けい 暮し向きの事や何かどうなんでしょうね。
伸太郎 うん、それなんだがね、俺も今までくわしい事は知らなかったんだが、ああ言う音楽家などと言うものは別に何処の会社へきまって出勤すると言う事がないので定収入と言うものはないらしいんだね。ふだんは仕事をしさえすれば金が入るものだから、何とも思わなかったらしいが、こんな場合になってみると後に残る者の事がひどく心配になって来たんだ。と言って相談を掛けられても俺の方でも今の処《ところ》あの家族をどうしてやれると言う程のゆとりがあるわけではなし、……そこでお前に相談に来たわけなんだが……。
けい ……。
伸太郎 俺も今更、お前にこんな事が相談出来た義理でもないのだが、外に大した名案もなしそれかと言って此の先何時まで続くか分らない戦争に、他人の力を当にするわけにもゆかないので……。
けい いいえそんな、相談出来た義理だの何だの。堤のお家はあなたのお家でございます。あなたがなさろうとお思いになる事に私はこれまで一度だって反対した事はございませんし、する理由もありませんわ。
伸太郎 確かにそうだ。お前の寛大なのをよい事にして俺はこれまで度々、当てにしてはならない時にお前を当てにしてすませて来たものだ。だからと言って俺が恥も面目も知らない人間だとは、まだ思っていないのだ。
けい 私は唯、松永さんがなぜ娘の事ならわたしに言って下さらなかったのかとそれを淋しく思ったのです。
伸太郎 そりゃ松永君だって事情を知らないわけじゃないんだから、お前に直接は言いにくかったんだろう。知栄は家を出る時は、ああして後足で砂をか
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