ける様にして出たきりだし、結婚する時だって前もってお前に一言了解を得たと言うわけでもなし、一緒に住んでいる俺でさえ事後承諾の形で、一時は憤慨したくらいだ。お前にしてみれば一人娘の婿だからいろいろ希望もあった事だろう計画もあった事だろう、店の仕事を継いで行く者の事も考えただろうし。
けい 私も一時はいろいろ考えた事もございますが、今頃までそんな事をおぼえては居りません。総《すべ》ての事が斯《こ》うなったのも、こうなるより外に仕方がなかったのだろうと思っています。商売の事も今度の戦争のおさまり次第でどうなるか分ったものじゃありません。結局白紙にもどって第一歩から出なおさなくちゃならないとすれば、後を継ぐ者などなかった方が却って良かったのかもしれないと思っています。
伸太郎 どうもお前の諦めのいいのには驚かされる。
けい ……、そのお蔭で廻りの人からすっかり捨てられてしまいました。
伸太郎 俺達俗人にとってはえらすぎるんだなお前は。
けい そんなひどい。
伸太郎 (真面目くさって)いや。ほんとだよ。うん。
けい (噴き出してしまって)まあ、真面目くさって何でしょう。
伸太郎 (ますます真面目くさって)なに笑う事はないさ、俺はほんとにそう思っているんだ。
けい もう、よろしゅうございます。知栄の事は確かに私の方で致します。何だかだと言うよりこの家も広いのですからあの子さえ良ければ、此方へ越して来たらどうでしょう。
伸太郎 うん、いっそそうした方がいろんな面倒が却って少ないかも知れないな。俺の方からもそうする様にすすめてみよう。
けい 私も今夜にでも一寸、行ってみます。
伸太郎 ああ、それでやれやれだ。何だか大変な問題の様な気がしていたが話してみるとそうでもないのかなあ、変な気持ちだな。
けい 一役おすませになったのですからね。
伸太郎 ちょいと高い閾《しきい》だったが、娘のお蔭で越えさせられてしまった。俺もこれでやっぱり親爺《おやじ》の端っくれかな。
けい 私達も、こんな話をするようになったのですから、もう年をとったのですね。
伸太郎 うん、俺などはもう。(とちょっと頭をみせて)白髪《しらが》が出て来た。
けい (微笑)でも、まだ白髪をお出しになる年じゃありませんでしょう。
伸太郎 いや、ほんとだよ。以前は時々知栄が抜いてくれたんだがね。この頃じゃもう、二本や三本ずつ、抜いたって追っつかないというので放ったらかしさ。放ったらかしにされるようじゃ、もうおしまいだね。(笑う)
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清、茶を淹《い》れてもってくる。
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伸太郎 あ、どうも……。
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清、去る。
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伸太郎 (ゆっくり茶を呑んで)この部屋は模様変えをしたのかね。
けい あの人達がくるのに、いくらかでもくつろげるかと思って、お蔵の中から昔のお道具を引張り出して来たのですが……。
伸太郎 ああ。そうか、道理で見憶えがあると思った……。よく虫にもならないで、もってるもんだね。
けい 紫檀《したん》だとか黒檀《こくたん》だとかいうものは、いつ迄たっても変らないものですね。
伸太郎 ふーむ、何だか此処にこうしていると妙な錯覚を起しそうだな。ずうっと以前に、ここで、こんな風にして、やっぱり茶を呑んでいたことがあるような……。
けい 私も……今、ふっとそんな気がいたしました……誰の考えることも同じようなことですね。
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間。
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伸太郎 (急に茶碗をおいて時計をみる)さあ。そろそろ行かないと……。
けい まあ、およろしいではございませんか。
伸太郎 いや、そうもしていられない。電車が四十分かかるからね。今から帰って丁度夕飯に間に合うくらいなのだ。
けい なんでしたらお夕飯を済ましていらしたら。
伸太郎 それでもいいが……しかしまだ用も残っているし。
けい ……左様でございますね。……
伸太郎 じゃ、その方のことはよろしくたのむよ。
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立上る。
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けい 承知いたしました。
伸太郎 家をたたんだり荷物を運んだり、大変だが……。(行きかけて)え? 何かいったかね。
けい は! いえ。
伸太郎 ふふ、つんぼの空耳か。
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と、いいながら、ちょっと周囲を見廻し、又行きかける。
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けい あの……。
伸太郎 (振返る)
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間。
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けい あの……。知栄が戻ります時……あなたも御一緒に、お帰りになって下さいませんか。
伸太郎 (嫌味でなく)この家には、まだ俺の戻ってくる部屋があるかね。
けい あなたのお部屋は、あなたが出てらした時のままになっております。
伸太郎 ……。憶えて、おこう……。
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そういって歩き出す。襖《ふすま》の所迄行った所で、急にふらふらと倒れそうになる。
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けい (馳けよって)あなた、あなた、どうなさいました。
伸太郎 大丈夫だ。何でもない。
けい 大丈夫ですか。なんだか、お顔の色が真っ蒼ですよ。
伸太郎 大丈夫だ。もういい。もう……。
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と歩き出し、又ふらふらする。
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けい 駄目じゃありませんか、あなた。(と椅子の所へつれてゆき)何処がお苦しいんです。此処ですか。帯をゆるめましょうか。よろしい? きよ! 井上さんいませんか。
伸太郎 (止めて)けい。いいんだ。大丈夫だよ。
けい そんなこと仰言しゃったって、これじゃあなた。きよ! あなた、ちょっとそのままにしていらっしゃいね。今お医者を。
伸太郎 (けいの手を引っ張って)いいんだ。いいんだ。このままにしていよう。けい、お前と、二人で、こうしていよう。な、じっとしていてくれ。お前と、二人で……。
けい あなた。あなた! あなた!
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     第五幕の二

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堤家の焼け跡。
第一幕の一と同じ瞬間。栄二とけい一幕の一と同じ型で立っている。
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栄二 十……何年振りでしょうね、お変りがなくて結構でした。
けい ……あなたこそ……御無事で何よりでした。
栄二 (ゆっくりさっきの切石の方へ歩き出しながら)体は長い放浪生活で、相当鍛えてありましたからね。而《しか》しすっかり年をとってしまいましたよ。貴女も随分お変りになった。月の光じゃ一寸見分けがつかない位ですよ。(又切石に坐る)
けい (栄二の方に近づきつつ)此の二三年私もすっかり老い込んでしまいました。
栄二 全くこの四年間の世の中の動き方ときたらすさまじかったですからなあ。そいつを乗り切る為には誰れもが十年を一年にしてやって来たんです。尤も其のお蔭で私の様に二度と見られないと思った世の中へひょっくり戻って来られた人間もいるにはいますがね。
けい ほんとうに……御無事で何よりでした。何時……。
栄二 出たのは一週間も前でしたがね、友達の家で昨日まで休ませて貰って、こっちに用もあり貴女方の消息も知りたいので、友達は引き止めてくれたんですが。ほんとはもう少しおそく上京する事になっているんです。
けい この頃はラジオも聞かず新聞も読まずなもんで……お迎えもしないで。
栄二 何そんなものはいりやしません。それより娘達を引き取って下すったそうで有難うございました。
けい ……そんな事くらいであなたへのお詫びが出来るわけではありません。
栄二 そんな恨《うらみ》が言いたい位なら、わざわざ訪ねて来やしません。わたしが何かを言う以上に、今度の戦争じゃ貴女はひどい打撃を受けられた筈でしょう。
けい 私はわたしの体と心をささえていたものを、一ぺんにへし折られてしまった様な気がします。何をしても無駄な様な気もするし、じっとしてはいられない様な気もするし、ほんとは何が何だか分らなくなってしまっているのです。
栄二 そいつは貴女一人だけの事じゃありません。この国全部が生れて初めての大きな打撃によろめいているのですからね。而しそれも何時かは収まるでしょう。わたし達みんなの努力でそうする外ないのです。この見渡す限りの焼跡にも間もなく今までの日本とはまるで違った新しい何かが芽をふいて来るでしょう。人間の恨よりもその新しい芽の方にわたしは興味を感じています。ああ、おしゃべりをしていて気が付かなかったが夜が更けたせいか急に寒くなった様ですね。
けい 中へ入ってお寝《やす》みになりましたら……。
栄二 いやそれより焚火でもしましょうか。今夜はこのまま眠れそうにもない。どうせこうなれば貴女の厄介者です。よろしくお願いします。
けい (立ちながら)わたしもどんなに心丈夫か知れません。どうぞ何時までも厄介になって下さいまし。(と言いながら壕舎の中へ焚物を取りに行く)
栄二 (後からついて行って柴を受取りながら)やあ、これは上等すぎる。どこか其の辺で拾って来てもよかったんだ。
けい (壕から出て来ながら)焼夷弾の焼跡には棒切れなんか残ってやしません。探したって無駄な事ですよ。
栄二 (石の所へもどって)はあ。すっかり専門家になりましたね。(二人一寸笑う。柴を組み合せながらふと手をやめて)わたしの娘達は。
けい 知栄達と一緒に大分前から疎開をさせてあります。木曾川のずっと上流で不便な処ですが温泉が出たりして落ち付けば住みいい処です。
栄二 ……有難ういろいろ、土浦にいると言うのは総子ですか。
けい そうです。猪瀬さんは早い目に思い切って工場をお売りになったのでとてもいい事なさいました。
栄二 ふみの方も無事にやっているらしいですね。
けい あちらも戦争中はいろいろむずかしい事もあった様ですがこれからはいろんな事がずっとしよくなるだろうと言う事です。
栄二 (燐寸《マッチ》を受取って火をつける様にしゃがみ込んでけいの顔をさけながら)兄貴が亡くなったと言う事は聞いたけれど、別居のままですか。
けい ……はあ。でもどう言うものですか最後の時になって突然此の家へ訪ねて来てくれまして息を引き取る時は私の手を持ってそのままでした。
栄二 (顔を上げて)そうですか、それはよかったですね。兄貴もやっぱり貴女と仲なおりがしたかったのですよ。それが夫婦です。其の話を聞いただけで、わたしはあの死物狂いの汽車に揺られてやって来た甲斐《かい》があると思います。
けい ええ。でも私此の頃になって時々考えるんです。私の一生ってものは一体何だったんだろう。子供の時分から唯もう他人様の為に働いて他人様がああしろと言われればその様にし、今度はそれがいけないと言って、身近の人からそむいて行かれ、やっとみんなが帰って来たと思ったら、何も彼もめちゃめちゃにされてしまい、自分て言う者が一体どこにあるんだか……。
栄二 今までの日本の女の人にはそう言う生活が多すぎたのです。しかしこれからの女は又違った一生を送る様になるでしょう。
けい そうでしょうか。そうでしょうね。そうあってほしいと思います。
栄二 さあ燃えた。手を出しなさい……。わたしは今ずっと昔読んだ外国の短篇を思い出しているんですがね、それは今夜の様に月の明る
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