知だという。それじゃ俺の思い違いだったのかと、俺は考え直した。お前に、女になくてはならないものが欠けていると、はっきり知ったのは、栄二が無断で家を飛び出したあの日さ。
けい あなた。それじゃあなたは、今迄そんな目で私をみてらしたのですか……。
伸太郎 止《よ》そう。過ぎた話だ。古い古い、昔のおとぎ話だ。(立上って)栄二の奴、今頃、どこで何をしていやがるのか……。(入る)
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けい、ぐったりなってしまう。
縁側の廊下から章介出て来る。黙って籐椅子に坐って、
間。
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章介 人間という奴は実によく間違いをする。まるで間違いをする為に何かするみたいだ。ところで、あんたもその間違い組かね。
けい (ぐっと首を上げて)いいえ、そんなことはありません。誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩きだした道ですもの。間違いと知ったら自分で間違いでないようにしなくちゃ。
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[#地から2字上げ]幕

     第四幕

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昭和三年中秋の午後。

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秋の夕方前の日ざしが庭の立木を照らしている。知栄ぼんやり庭をみて坐っている。栄二入ってくる。
片隅の支那カバンを開いて中をごそごそみているが……。
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栄二 知栄ちゃん。
知栄 ああ叔父さま、お帰りなさい。
栄二 何をみているんだね。
知栄 何にもみていないわ。
栄二 いやにぼんやりしてるじゃないか。
知栄 そうかしら、私、時々こんな風になっちまうの、何をするのも何を考えるのも厭になってしまうのよ。
栄二 この家の空気はなんだか妙に沈んでいるね。冷え冷えとしているのは秋という陽気のせいだけではないようだ。まるで水の底にでもいるようだ。濁っていて底のみえない水もあるが、ここのは澄んでいて底のしれない水だ。いつからこんな風になっちまったんだろう。
知栄 しらないわ。私がいろいろなことを憶えているようになってからこっち、ずっとこんな風だったわ。
栄二 昔はこんなじゃなかった。死んだ親爺もおふくろも、賑《にぎ》やかでお祭り騒ぎが好きで家の中には、笑い声が絶えたことがなかった。兄貴は絵書きになるんだといって家中の誰彼を掴《つかま》えてはモデルにしたもんだ。ふみの奴は音楽学校を出て西洋旅行をするなんていってた。二人共その方の腕前はいい加減なものらしかったがね。とにかくこんな具合じゃなかったよ。
知栄 この家にそんな時代があったなんて、信じられないわ、私には。
栄二 尤《もっと》も時代も変った。俺もその頃は中国へ渡って馬賊になるなんて大望を持ってたんだからな。
知栄 でも、叔父さまはとにかく中国へお行きになったんですもの、おじさまだけは初志を貫徹なすったわけでしょう。
栄二 さあ、果して、初志を貫徹したことになるかどうか、こりゃ怪しいがね。お父さんは今でも絵を画いているかね。
知栄 時々……思い出したようにジャガ芋や人蔘《にんじん》の絵を画いてらっしゃるわ。でも、別にそれが書きたいから書いてらっしゃるとは思われないわ。以前からの習慣をやめるほどの決心がつかないからしてらっしゃるとしか思えないわ。
栄二 ジャガ芋に人蔘か。……
知栄 叔父さまは、中国の何処にいらしたの。
栄二 う……ん。いろんな所にいたよ。初めは北京にいたが、近頃ではずっと上海《シャンハイ》にいた。その他|広東《カントン》にもいたし、武昌《ブショウ》にも永くいたね。
知栄 そんなに方々廻って、一体何をしてらしたの。
栄二 そりゃ、いろんなことをしたよ。セメント会社の技師になったこともあるし、苦力《クーリー》みたいなことをしていたこともある。中国っていう所は不思議な所だからね。……ま。そういう話は、又のことにしよう。お父さんとお母さんの別居生活ってものは、長いのかい。
知栄 おじさまは、御自分のことは、ちっともお話しにならないで、うちのことばかりおききになるのね。
栄二 そういうわけじゃないがね、誰だって自分のことってものは厭になるほどわかっているからね、つい他のことに好奇心が働くんだろう。俺も久し振りに自分の家に戻って来て、本家の主人と主婦が別に暮らしているんじゃ、何処へゆっくり腰を落ちつけていいんだか見当がつかないからさ……。
知栄 私は生れた時からずうっとこの家にいるけれど、それでもゆっくりと腰を落ちつけてなんかいたことないわ。
栄二 君は、お父さんとお母さんと、何方《どっち》が好きなんだね。
知栄 わからないわ。お母さんと一緒にいる時はお父さまが可哀そうだし、お父さまと一緒にいる時はお母さまがお気の毒だと思うの。
栄二 それで、親爺は、アパートからその横浜の国際学院迄毎日通っているわけだね。
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けい、前幕の活動的な気負い立った感じとは逆の、静かでどことなく親しみ難い感じ。
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けい (新聞を読みながら入ってくる)国民政府日本品の輸入販売を禁止か? 対支貿易は停止状態……今に中国に関りのある日本人は軒並《のきなみ》倒れてしまうでしょうね。
栄二 王正廷外交は田中内閣の山東出兵を取り上げて、日本の中国に対する領土的野心だとしてますからね。当分この状態は続くとみた方が間違いないでしょう。
けい どういうんでしょうね。中国の政府は商務総会に命令を出して日本から輸入したもの、契約済みの貨物をすっかり登録してしまいましたよ。日本船による貨物の輸送も禁止したそうです。揚子江《ようすこう》を走っている日清汽船は空《から》で動いているそうですがね。
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知栄、黙って立って入ろうとする。
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けい 知栄ちゃん、何処へ行くの。
知栄 (ふり返らないで)何処へも行かないわ。私には、中国のお話なんて、別に興味ないわ。
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出て行く。
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けい ……。あの子は、此の頃だんだん痩《や》せてくるような気がするけど……。そうでもないのかしら。
栄二 姉さんと知栄ちゃんは太陽と月みたいなものですね。姉さんのいる所には知栄ちゃんはいない。知栄ちゃんのいる所には姉さんの姿がみえない。
けい 子供というものは、むつかしいものですよ。私は他所《よそ》のお母さんやお父さんが、三人も五人もの子供を引きつれて平気で街を歩いてらっしゃるのをみると、それだけでへえっと舌を巻いてしまうんです。よくあんな平然とした顔をしていられるものだと思いますね。
栄二 そうかな。むつかしく考え出せばきりのない話だが、なんでもないと思えばそれはそれで済むもんですよ。私をごらんなさい。言葉もうまく通じないような中国人を女房に持って二人の女の子がいます。それでも別にむつかしいなんて考えたことはありませんな。尤も私は外の仕事が忙しくて家の中のこと迄気を配っている余裕なんかなかったせいかもしれませんがね。それだけに、たまにいる時には珍しいんでしょう。
けい 私の所じゃ、私が店の用事で追い廻されれば追い廻されるほどあの子は私の所から遠くなってゆくのです。お互いに淋《さび》しいんだから、たまにいる時でも、という気が起りそうなものがあべこべなのです。
栄二 でも、あの子は姉さんの立場や気持を、案外わかっているじゃありませんか。
けい そうなんです。あの子には私のことは私以上によくわかっているのです。わかっていてやっぱり我慢がならないのですよ。それを一生懸命に辛抱しているのです。みてて痛々しいくらいですよ。
栄二 そんなに知栄ちゃんのことが気になるなら、どうして、兄貴と一緒に住まないのですか。
けい 私が別居を望んだわけではないんです。此処はあの人の家だし、私が別に住みたいのなら、私がこの家を出てゆくべきじゃありませんか。あの人は私が此処を出てゆくことを望んでもいないのです。私がいなければこの店が困ることも事実ですからね。
栄二 それで、兄貴は不自由とも何とも思わないのかなあ。
けい あの人は、あれでいいんでしょう。若い頃から語学の教師のような仕事につきたかったんですから、この頃は仲々元気にやっているようです。国際学院というのは、在留の印度人、中国人なんかの学校なんですがね。語学の他に歴史なんかも教えているようですよ。
栄二 食事やなんかはどうしているんですか。
けい 食事は近所の食堂を契約して朝晩運んで貰っていますよ。一週間に一度づつ私が行って掃除をして汚れものを持って帰ることにしています。
栄二 随分手のかかる別居ですね。それじゃあどうせ生活費なんかも此方から持ち出しでしょう。
けい あの人はあの人として精一杯のことをしているのです。足りない時は持ち出してもよろしいわ。
栄二 あなたはどうなのです。そういう暮しをしていてそれで満足なのですか。
けい 満足かどうか……そういう考え方をしてみたことはありませんがね……するだけのことをしてこうなったのですもの、これでいいと思っています。
栄二 ……。
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章介。
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章介 此処にいたのか。
けい いらっしゃい。
栄二 今、お帰りですか。
章介 ああ、疲れた疲れた。どうも年のせいか浮世の風の荒くなったせいか、この頃はすぐくたびれて……。
栄二 あまり稼ぎすぎるのじゃないのですか。そろそろ引退でもなすったら。
章介 ううん、引退したいにも、後を継いでくれるものがおらんじゃないか。
栄二 (笑って)私ではどうです。
章介 ああ、お前がやってくれるなら文句はないがね。
栄二 (何か慌てて)いやあ、止しましょう。又何時会社をおっぽり出して行方《ゆくえ》をくらますかもしれませんからな。ははは。……しかし、こうなるとやっぱり強情を張って独身を押し通したことを後悔しませんか。
章介 なに別に後悔もしないがね。しかし驚いたよ。俺のケチなメリヤス会社でも世間並に争議が起るんだからな。
けい まあ……。
章介 世の中は悪くなったよ。市電のストライキ、炭坑の争議、銀行襲撃、張作霖《ちょうさくりん》の暗殺騒ぎ、まるで徳川末期の百鬼昼行だ。一体どういうことになってゆくのかね、日本は。
栄二 まあ、一応ゆく所迄ゆくんでしょ。
章介 行く所というのは何処だ。
栄二 そりゃ、僕にもわかりませんが。
章介 いやに責任を持ったようないい方をするな。俺はこの頃そういう物のいい方をきくと焦々《いらいら》する。
けい ほんとに、このままじゃ家なんかも、間もなく行く所へ行きそうですよ。
章介 う……ん。蒋介石も折角日本の力で共産党を追って返り咲いても、この有様では国民党もガラガラだ。
けい 孫文以来、日本とは切ってもきれない間でしょうにね。
章介 王正廷の背後には米国という後ろだてがいるんだ。王が外交部長に就任すると、同時に米国から田中総理に一種の威嚇的《いかくてき》な申し入れがあったといわれている位だからね。
けい それじゃ中国の政治ってものは誰がやっているんだかわかりゃしませんね。
栄二 誰が出て来たって、今迄のような頭目政治をやっている限り同じことですよ。可哀想なのはその都度《つど》道具に使われては絞られる一般民衆です。
章介 中国の政治のよくない所は何時でも外国の力を利用して、他の外国を牽制してばかりいることだ。こりゃもう、日清日露の役以来そうなのだ。アメリカ、イギリス、ロシア、実に厄介極まる。
栄二 そうですよ、中国はどうしても、中国自身の手に戻さなくちゃいけません。中国に関係のあるすべての外国は中国から手を
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