れてしまいますよ。なんだったら、私も一緒に行ってあげますよ。
けい そうお願い出来れば私もどんなにか心丈夫ですがね。やっぱりこんなことは女一人じゃちょっと具合がわるくって……。
伸太郎 何も世間から逃れて、ひっそり暮している人の住居をそう脅《おびや》かしに行かなくってもいいんじゃないかね。
けい 別に脅やかしにゆくわけじゃありませんわ。此方は当然済まして貰う権利のある債務の話し合いに行くわけなんですもの。
伸太郎 しかしそれが無ければうちが明日から困るというわけのものでもないのだ。それにあの話は一年も前の話で、もう一応かたがついているのだろう。
けい いいえ。かたなんぞついてはいませんよ。御本人がいなくなってしまったから仕方なしにうやむやになっているだけです。あの人には随分沢山の人がひどい目に逢っているのですもの。知らして上げたらみんなどんなに喜ぶかしれませんよ。
伸太郎 そんなにお前、他の人に迄知らせるつもりなのか。
けい 知らせやしません。知らせやしませんけれど、それでいいってことになれば世の中に債務など果す人はありゃしませんわ。(笑って)なにもあなたに行って下さいというんじゃないからいいじゃありませんか。
伸太郎 (半ば当てつけに)自分がそんな身分になった時の事を考えてみればいいんだ。(立って縁側の方へ行って向うむきに坐る)
けい (少しむっとして)大変御寛大なことでございますね。でも、困る時はやっぱり私が困るんですから。
伸太郎 おい。それは俺に働きがないという謎かね。
総子 どうせ私はこの家の厄介者なんです。子供が二人あろうと、年をとっていようと、そんなことなんか、どうだってかまいません。おけいさんがあの人がいいっていうならあの人の所へ行きます。ええ、行きますとも!(そういって泣きながら駈けこむ)
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間。
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精三 どうも……なんだな。女も三十を越して一人でいるというのは、精神的に具合が悪いようだな。
ふみ そりゃ、女だって生きてるんですもの、虫の居所の悪い時だってありますわ。
精三 しかし、今の話と総子さんの縁談と一体何の関係があるのかね。俺にはわからんね。女のああいう神経は。
けい 私がもっと早く帰ってくればよかったのですよ。
ふみ そりゃ、お姉さんがいて下さった方がよかったには違いないけれど……。
けい 私も夕方までには帰れるつもりでいたのだけれど話が混入《こみい》ってくればそう予定通りにはゆかないものだから。支那の政府が変ったばかりでこれから何方《どっち》を向くかわからないことだし、直接商売に関係のあることですものねえ……。
伸太郎 早く帰ったからどう遅く帰ったからどうってことはないさ。とにかく、いい年をした人間が三人も首を揃えているんだからね家には。
精三 そりゃそうですよ。こういうことは何もそうむずかしく考えることはないんです。いくら大騒ぎしたって纏《まとま》らない時は纏らないし、纏るものなら放っておいたって纏ります。それだから縁というんです。
ふみ あなたのように無造作に考えるのもどうなんですかね。いくら好きな道だからって、今日みたいな日に将棋を指《さ》すなんて。
精三 いや、俺は別に指したくっていい出したわけじゃない。お愛想のつもりでいったら向うが乗ってきたんだ。
ふみ 時と場合を考えて御覧なさい。御見合いの介添に来て、介添すべき相手を放ったらかしといて自分が遊びごとに熱中してしまうなんて……総子姉さんにしてみれば随分|莫迦《ばか》にされた気がするじゃないの。
精三 (怒って)お前は一体俺にどうしろというんだね。兄さんは自分の部屋に引こんでしまって出て来ない。総子さんは石みたいに黙りこくって、畳のへり[#「へり」に傍点]ばかりむしってる。猪瀬さんは不味《まず》そうに煙草ばかりすぱすぱやってる。一体俺に何が出来たというんだい。裸でステテコでも踊ってみせればよかったのかね、莫迦々々しい。俺は帰る。(プリプリして出て行く)
ふみ まあ。なんていいぐさをいうんでしょう。裸でステテコだなんて、どこであんな下品なことを憶えてくるんでしょうね。男ってほんとに勝手なものだわ。結婚するまではさんざん機嫌をとって、人の後からついて廻っておきながら一度一緒になってしまうと、とたんに威張り出すんですからね。二言目《ふたことめ》には大きな声を出して怒鳴るし。音楽に趣味なんて、とんでもない大嘘だわ。折角声楽のレッスンにだって通っておきながら元も子もなくしてしまったし、此頃じゃまるでピアノの蓋をとってみたことないんですもの。私の結婚ってほんとに考えてみると失敗だったわ。
けい (焦々して)失敗だの成功だの、そんなことをいってみて、一体何かになるんでしょうか。誰が選んでくれたのでもない、御自分でお選びになった道じゃありませんか。それにあなたは何と思ってらっしゃるか知りませんがね。精三さんはあなたには過ぎた旦那様ですよ。(出て行く)
伸太郎 (立上って寝椅子の方へ行きながら)誰が選んだのでもない、みんな自分で選んだ道か。精三君はお前には過ぎた亭主だ。そりゃほんとのことだぜ。(ごろりと横になる)
ふみ いやだわ。これじゃあまるで、私が叱られに来たみたいだわ、そうかしら、精三が私には過ぎた旦那さまだなんて……私、そんなこと考えてみたこともないわ。でもそういわれてみるとあんなにそわそわして、落ちつきのなかったお人好しが、今じゃすっかり自信たっぷりなんですもの。わけがわからないわ。いつからあんなになったんだろう。(急に)帰りましょう、旦那様のところへ。(そそくさと出てゆく)
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間、けい入って来て寝椅子の傍へ行く。
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けい あなた。
伸太郎 ……。
けい あなた、おやすみになったんですか。
伸太郎 いいや。
けい じゃ、ちょっとお起きになって……。
伸太郎 なんだい。(ねたまま)
けい あなた、仰言しゃって。私の何処《どこ》が一体いけないんですの。
伸太郎 ……。
けい そんな風に黙っていられるの、私、たまりませんの、私は何でもあなたのようにお腹《なか》に持ってること出来ないんですもの、何を考えてらっしゃるのかわからないで毎日一緒に暮らしているなんて、私には辛抱出来ませんわ。
伸太郎 別に……どうといって、直すこともないだろう……。
けい 総子さんの御縁を断わればいいんですか。私は決して猪瀬さんを押しつけるつもりはないのです。先様が逢ってみたいと仰言しゃるから事を運んだまでで、私はお断りしたってちっともまずいことはないんですよ。
伸太郎 そりゃ総子が厭といえば仕方がないけれど、俺は積極的に断りたいと思うほど悪い感情を持ってはいないよ。総子も三十を越しているんだし、あれくらいなら、いい相手としなくちゃいけないだろうからな……。
けい それじゃやっぱり、今夜私が家にいなかったのがお気に入らなかったのですか。
伸太郎 そんなことはないといってるじゃないか。
けい そんなら、そんな憂欝な顔をなさらなくったっていいじゃありませんか。私だって一生懸命家のことで駈けずり廻っているんです。
伸太郎 お前が家の為にどれだけ尽《つく》してくれているか俺には充分わかっているよ。だからそれでいいだろう。
けい 何にもないと仰言しゃっても私には感じるんです。言葉に出して仰言しゃらなくてもそれくらいのこと私にはわかりますよ。そんなら何も彼も言っておしまいになった方がさっぱりしてお互いにいいじゃありませんか。
伸太郎 そうさっぱりと口に出して、いえない場合だってあるだろう。
けい それ程私に、いい難いことなのですか。
伸太郎 いや、いい難いことなんぞありゃしないさ。どういう風にいっていいかわからないといった方が適当かも知れない。強《し》いていうならお前と俺と……性格が合わないとでもいうか……。
けい 性格……。
伸太郎 成程お前は一家の女主人としては実によく行届《ゆきとど》く。店の仕事から奉公人の指図、台所から掃除洗濯、近所|交際《づきあい》、何一つとして手抜《てぬか》りはない。よく一人であれだけ廻るものだと俺は、感心してるくらいなんだ。しかしね。女ってものは、ただよく気がつく、よく働く、それだけのものじゃないよ。女には、どうしても女しかもっていないっていうものがある。お前にはそれがないのだ。
けい まあ、それは一体どういうことなんですの。女しか持っていないものって何なんですか。
伸太郎 残念ながら俺にもそれがどんなものだか口でいえるほどにはわかっていない。ただお前にはそれが欠けているということだけはわかるのだ。お前は店のことを殆んどひとりで切り廻してくれている。しかしお前がそれほどに出来なかったとしても、俺は決してお前が出来損《できそこな》いだったとも女として行届かないとも思わないだろう。総子のことにしてもそうだ。お前は次から次へいろいろの話を、掻き集めるようにして持って来る。誰にでも出来ることじゃない。ないと思っていても、お前がそうすればするほど俺はお前のすることについて行けない気がするのだ。
けい あなた、それはひどいじゃありませんか。私が、お家の為を、あなたの為を、あなたの妹さんの為を思ってすることを、そう一々裏からみてらっしゃるなんてひどすぎます。
伸太郎 だからお前が悪いといってるわけじゃない。お前と俺との性質の違いだから仕方がないといっているのだ。
けい いいえ、そんな仕方がないなんていうようなことじゃありませんよ。私はあなたと御一緒になる時なくなられたお母様からこの家のことをくれぐれもたのむといわれたのです。ですから私は、そりゃもう一生懸命、お母様にいわれた通り家の中のことお店の事と、一人でやってきたのです。そりゃ私には、あなたの出来ないとわかっている事を知らん顔をして放っておくことは出来なかったし、自分なら出来るとわかっている仕事を出来ないような顔をしてすましていることもしませんでした。だからといって、あなたからそんなことをいわれる憶えはないと思います。
伸太郎 そうなのだ、お前は、なくなったお母さんに堤の家の将来を深く託された。その時お前は堤の家の柱となり、当主である俺の保護者となるという闘志と自負心とに胸を躍らせて立ち上った。ひょっとするとお前は俺の妻になることより、その仕事に対する期待や熱意の方が大きかったのじゃないのかね。
けい 卑怯《ひきょう》ですよそれは。そんなこと今になって仰言しゃるぐらいなら、なぜ今迄私のすることを黙ってみてらしったのです。そんなに私のすることがお気に入らないなら、御自分でおやりになればいいじゃありませんか。
伸太郎 俺も一度はそう思った。だからいろんな方から物事を考え直そうとしてきたよ。しかし、支那問題は金だと放言してはばからないような、お前の一面的な思い上り方をみていると俺は我慢がならなくなるのだ。いいかね、民族と民族の問題はお互いの文化と伝統を尊重することなくして解決の出来るわけはないのだ。いや、こりゃ飛んでもない脱線だ。俺はなにもお前と支那問題を論ずる気なんかなかった。そうだ、言いかけたついでにもう一ついっちまおうか。お前は堤家の重要人物となることの期待の為に、お前自身の心さえ偽《いつわ》ったことがありゃしないかい。
けい 今夜のあなたはどうかしてらっしゃるわ。あなたの仰言しゃることを伺《うかが》っていると私はまるで闇に鉄砲っていう気がしますよ。私は叱られるような悪いことをした憶えもないのに先生に叱られている学校の生徒みたいね。何でしょうその、私自身の心を偽って……。
伸太郎 栄二のことだよ。
けい 栄二さんのこと?
伸太郎 そうだよ。俺は初め、お前が栄二を好きなのだとばかり思っていた。栄二も亦《また》お前を好きなのだとね。ところが、お母さんがお前を貰えという、お前も承
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