だか妙な気がしますわ。
栄二 だって、船は海を渡るために出来てるんだぜ。別に妙なことはないさ。
けい そりゃそうですけれど、向うには清国人ばっかり住んでいてみんな清国語で話したり泣いたりしてるんでございましょ。それだのに私達はみんな日本語を話したり、買物したりしてるんですもの。おかしいわ。
栄二 そうかね、僕は日本人が清国語で話をしたり清国人が日本語で喧嘩をしたり怒ったりしたら、その方がおかしいと思うがね。
けい ええ、それはそうかも知れませんわ。でも私のいうのは、そういうすっかり何も彼《か》も違った二つの国がですね、まるで遠くにあるようでいて実は案外近くにあるということ……。なんだかうまくいえないわ。
栄二 僕は三、四年前には、清国へ渡って馬賊になろうなんて真面目に考えていたんだ。
けい まあ、でも、あなた様ならお似合いになるかもしれませんわ。
栄二 おい、そりゃ僕を賞《ほ》めたつもりかい。
けい あら、別にそんなつもりで申し上げたんじゃありませんわ。ただそう思いましたからつい。
栄二 尚よくないじゃないか、それじゃあ。
けい すみません。
栄二 謝ったってもう遅いよ。
けい 私、清国なんて所、考えてみただけでは想像もつきませんわ。お父さんがあんな所へ出かけて行って死んだなんて、時々やっぱり本当にあったことじゃないような気がするんです。そんな時は来ないに決ってるんだけど、いつか一度は行ってみたいと、今でも、思っていますわ。
栄二 僕のお父さんってのはとても変った人だったらしいんだぜ。明治三年に渋沢栄一さんが富岡に製糸工場を作られたときいたら、もうこれからはそれでなくちゃいかんといって、自分の家の前へ、いきなり煉瓦造りの工場を建てちまったんだ。機械迄外国から買ったのはいいんだが、これを動かす方法を誰も知らんというのだからね、無茶苦茶だよ。
けい まあ、それで、どうなすったのですか。
栄二 それっきり家は潰《つぶ》れてしまったのさ。それから清国へ渡って塩田で働いたり綿畑で働いたりしたらしいんだがね。日清戦争が始まって通訳にやとわれたのが世の中へ出て来る緒《いとぐち》になったのさ。僕にもそういう血が流れているのかもしれんなあ。
けい それじゃお母様も随分御苦労なすってらっしゃるんですね。
栄二 そりゃそうだろう。だからお父さんだって大事にしてたし、僕達だって皆お母さんは大事にしなくちゃいかんと思ってはいるんだ。
けい あなたの奥さまになられる方もそんなに苦労をなさるのかしら。
栄二 お前は、どんな人の奥さんになりたいと思ってるんだい。
けい さあ。そんなことを考えてみたことございませんわ。でも馬賊になりたいなんて人の奥さまだけはいやですわ。
栄二 だって、初めてお前がこの家へ来た晩、お前は僕なら、手を握ったってじっとしているっていったじゃないか。
けい あら、いやだわ今頃、そんなこと思い出したりなすって。あの時は私、何とかしてお巡りさんに渡されたくないと思って一生懸命だったんですもの。口からでまかせで、何言ったんだか自分でも憶えてなんかいませんわ。
栄二 へえ、口から出まかせだったのか。僕は又少しは僕が好きなのかと思ってた。今迄親切にしてやって損しちゃったな。
けい さあ、そんなつまらないことを仰言《おっ》しゃってないで、ちょっとおはなしになって。あの桶洗って来なくちゃならないんですから。
栄二 なんだい、人をがっかりさせといて、そう急いで逃げる奴があるかい。(と、いいながらたすきを握っていた手を放す)
けい いえ、逃げるわけじゃありませんけど、後に叔父さまの御用だの、ふみ子お嬢さまの御用だのいろいろあるんですもの、御免なさい。
栄二 おいおい。ほら、ばたばたするから櫛が……(と拾って)お、これはあの時の……(といいかける時、けいは急にそれを奪いとり、走って入ろうとする。丁度出て来たしずと危くぶつかりそうになる)
けい あ、御免なさい。
しず どうしたんです。家の中でそんなに走ったりしちゃいけませんね。(といいながら栄二の方をみる。栄二ちょっと照れて外の方を向く)
けい すみません。今度から気をつけます。(と、ゆきかけるのを)
しず あ、ちょっと……。
けい はい。
しず (栄二に)私、けいちゃんと二人だけで話したいことがあるからちょっとの間、お前向こうへ行って頂戴な。
栄二 ええ。(出て行く)
しず さあ。もっとこっちへいらっしゃい。
けい (恐縮して)はい。
しず そんなに堅くならなくてもいいんですよ。まあそこへお坐りなさい。
けい はい。
しず なんですねえ。そんなに、兵隊さんのようにかしこまっちゃ、お話もなにも出来やしないじゃありませんか。
けい 奥さま。私、奥さまから受けました御恩決して忘れてはいませんのです。奥さまに助けていただかなければ今頃、私はどんなになってしまっていたか、考えてみるだけで怖い気がします。ですから私。奥さまがお怒りになるようなことは、決していたしません。それだけは信用して下すっていいと思います。
しず お前は一体何の話をしているのです。
けい いえ、私……何の話をしようと思ったんでしょう。ただ……御免なさい。今日は何だか少し変になっているかもしれません。
しず 私はいつだってお前を信用しています。お前と私とは、同じ月の同じ日に生れたんですもの、お前を疑うことは、私自身も信用のならない人間ってことになりますからね。(笑う)けどお前も若いし家には若い男の子が二人もいるし、まァ、お互に間違いのないうちにと思って急にこんなことをいう気になったのですがね……。
けい ……。
しず といって何も、むずかしいことじゃありませんよ。もう、大分前から考えてはいたことなんだけど……お前も女のことだし、何《いず》れは何処かへ身を堅《かた》めなくちゃならないんだけど……そういうことについて、別に相談する所も、親身になって下さる所もないのでしょう。
けい ……。(うなずく)
しず それじゃ、どう、自分の誕生日にこの家へ迷い込んで来たのも何かの縁だろうから、いっそ本当にこの家の人になったらば……。
けい まあ、奥さま、そんな、私……。
しず そりゃ、女にとっては一生の岐《わか》れ目《め》で、並大抵のことではないのだから気がすすまなければ無理にという性質のものではないのだけれど……。
けい いいえ。気がすすむとか、すすまないとか、そんなことは思ってもみません。私のような生れも育ちもわからないような人間がこちらのようなお宅に上るなんて怖いと思うだけで……。
しず 私は生れを貰うつもりはないのです。人がほしいのです。
けい 奥さまは……私が……ほんとに出来るとお思いになるのでしょうか、こんな、お家のいろんなことが……。
しず お前でなければ出来ないと、思っているくらいなのですよ。お前は気分もはきはきしているし、身体も丈夫だし、働きもので、おまけに店の仕事も随分面白がっているようだし、お前がやってくれれば私はどんなに安心して隠居が出来ると思うのです。私だっていつまでも生きているものじゃなし、伸太郎はあの気性で、あの子一人に何もかも委《まか》せるのはどう考えても無理だと思いますからね。
けい 伸……私を、この家のものになれと仰言しゃるのは伸太郎様の……。
しず そうですよ。お前はどうお考えだったの。
けい いいえ別に……。
しず 自分の子供のことを自分でいうのもおかしいけれどあの子は家庭の旦那様としては誰に比べても恥かしい人じゃないと思います。ただ人中へ出て激しい世の中を渡るのには何か欠けた、弱い所がある気がするのです。そこをお前に家の中から助けてやってほしいのです。
けい 困りますわ、そんなに……でも、伸太郎さまはお家のお仕事よりは、学校の先生のようなことの方が……。
しず 誰にだって自分一人の願いというものはあります。私だって子供は可愛いのです。子供のしたいようにさせてやりたい気持は誰にも負けません。けれどこれは私がさせるのではないのです。家がそうしろと命じるのです。わかりますか。
けい はい。でも私、奥さま……。
しず 子供に家を譲るということは、苗木を土地に植えつけるようなものです。親というものは取越し苦労なもので、添木《そえぎ》をしたり、つっかい棒をしたり。傍《はた》からみればそれほどまでにしなくともと思えることが親にとっては一生懸命なのですよ。わかってくれますね。
けい はい。それはよくわかっております。けれど……。
しず お前は先刻、私の恩を忘れないといってくれましたね、だったらどうぞ、私のためにでも、このことを承知しておくれ。ね。
けい はい。(泣いている)
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間。
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しず ほほほ。なんでしょう。二人共泣いてしまったりして。さあもう、話はすみました。他の者が不思議に思うといけません。彼方《あっち》へ行きなさい。
けい はい。(行こうとする)
しず お待ちなさい。その顔じゃ却《かえ》って変に思われるかもしれない。私が先にゆきますから、少し此処にいて顔を直して行った方がいいでしょう。今の話は折を見て私から皆に話します。お前はそのつもりでさえいてくれればいいのですからね。じゃあ……(出て行く)
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間、単調なピアノの音。
けい、帯の間から先刻の櫛を出し、ちょっとの間みているが思いきってぽっきり二つに折り庭へ投げ出し入ってゆく。丁度庭の奥から出て来た章介の足許にそれが落ち、章介はそれを手にとりけいの入って行った方を見送っている。
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     第三幕

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大正四年夏の夜。

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縁に簾《すだれ》がかかっている。左の縁にある籐の寝椅子ですっかり奥様になっているふみが知栄(五歳)に手紙を読んできかせている。
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ふみ 土着の北京人《ペキンじん》、または、北京に来て一家を構えている人以外の外来者、或は旅行者が北京で住む家に三種類あります。一つは、旅館で、一つは……公《コウ》……公《コン》……寓《コイ》か。読みにくいな。そしてもう一つは民房《ミヌファン》……です、と。旅館は日本人のそれと大して変りなく、長期の滞在には不経済だし、民房《ミヌファン》というのは安いけれども部屋を貸すだけで、食事がつかないので私のような独身者の浪人には……知栄ちゃんは栄二叔父さん覚えている?
知栄 ううん。
ふみ そうかなあ。でもまるっきりってことないでしょう。
知栄 だって……私の生れた時はもう、この家にいなかったんでしょ。
ふみ ん。そりゃ、そうだけど。三つくらいの時に一度帰ってきたわよ。あんた随分よくして貰って方々|抱《だ》っこして行ったりしたんだけどね。
知栄 しらないわ。栄二おじさんて支那で、何しているの。やっぱりお父さんのお店の仕事しているの。
ふみ いいえ、叔父さんには叔父さんでお仕事があるのよ。何をしているんだか、私にもよくわからないけれど……。
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総子、ふみよりずっと派手な衣裳。若づくりの濃化粧。
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総子 ああ暑い、何て蒸《む》すんでしょうね今日は。(袂で煽ぎながら)夜になってもまるで風がないんだもの。息がつまりそうだわ。
ふみ (にやにやして)暑いのは風のないせいばかりじゃなさそうね。
総子 あら、どうして、変なこといわないで頂戴。(入ってきて)知栄ちゃん、お母さままだ。
知栄 まだよ。
ふみ 知栄ちゃん、お母さまいなくってつまんないでしょ。
知栄 ううん。お母さまお家にいたって、お店の御用ばっかりで私と遊んでくれないんだもん。
ふみ それじゃ、知栄ちゃんは誰と遊ぶの毎日。
知栄 一人で。

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