にでも天津《てんしん》へお発ちになるかもしれないというのに今日お出しになるなんてひどいわ。咲やにたのんだら何だ彼だとぐずぐずいうし。じゃ、たのみますよ。間違いなくね。
けい 承知いたしました。いってらっしゃいまし。
総子 ほんとに精三さんったら困ってしまうわ。私の刺繍台を直してやるなんて持っていったきりちっともおみえにならないんですもの。それにふみちゃんったら私の日傘を持ってお稽古にいっちまうし、いやだわ、ほんとに。(去る)
けい 野村さまって、そういえば随分長くお見えにならないようでございますね。何処か、お悪いんじゃないでしょうか。
伸太郎 僕は総子という人間をみるのが、何となくいやな気がするんだ。自分じゃ何にも出来ないでうじうじして煮えきらないくせに始終ぶつぶつ愚痴をいっている。悪い人間じゃないんだが愉快になれない。あれをみてると、僕は自分の影をつきつけられているような気がする。
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しず、庭から古い漬物桶のようなものを下げて出てくる。
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けい (みつけて)あら、奥さま、それをどうなさるんでございますか。
しず 今物置でみつけたのですよ。漬物をするのに丁度いいと思ってね。洗っておきましょうと……。
けい そんなこと奥さまがなさらなくても私いたしますわ。
しず いいんですよ。別に大したことでもないんだから……。
けい (下駄のないまま片足下りて行って桶を押さえ)それでは私達が困ります。後で洗っておきますからここへお置きになって。
しず そうですか。それじゃ、急ぎゃしないのだから明日でもいいのよ。(隅へおく)お前まだ銀行へ行かなかったの。
伸太郎 ええ、ああそうか。
しず ああそうかではありませんよ。岡本の手形のことがあるから早くしといて下さいって頼んだじゃありませんか。
伸太郎 でも、手形の割引なんて、きまりが悪くって厭だな僕。
しず 何がきまりが悪いことがあるものですか、何処の家だってお金を動かす都合ってものがあるものです。そのために銀行があるんじゃありませんか。
伸太郎 え、だから行きますよ行きますけど……入金の時やなんかと違ってなんだか……どうも……(出て行く)
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しず、しばらく見送っているが、
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しず ああ、暖い。ここは随分よく日のあたることね。
けい 今日は奥さま、ご加減がよろしいようでございますね。
しず ええ、店のことも気になるし、起きてみましたよ。どう、家の用事が多くて辛《つら》くない?
けい いいえ、もっとどんどん御用をお出し下すった方がいいくらいですわ。私なんだか遊んでいるようで勿体《もったい》ないと思っています。
しず そんなことはありませんよ。家の方こそ、お前が来てくれてから掃除はゆきとどく、用はどんどん片づく、どんなに喜んでいるかしれないのですよ。でも、あまり無理をしないで辛い時は遠慮なくそういって休みなさい。
けい 辛いなんて、そんなこと決して。私、時々こんな暮しって夢じゃないかと思うくらいでございますわ。朝、目がさめると、ああやっぱりほんとでよかったと思うんです。
しず ふふふ。誰も彼もがお前のように遠慮勝ちの望みを持っていたら、世の中はどんなに穏やかに美しくなるでしょうね。
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章介。
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章介 やあ、こっちでしたか。
しず いらっしゃい。
けい いらっしゃいまし。
章介 ああ。すまんがね、冷たい水を一杯くれんかね。
けい はい。(ゆこうとする)
章介 おいおい、ちょっと。
けい はい。
章介 (つくづくとみて)ははあ。これがあの、いつかの晩、鼠の尻っぽみたいな下げ髪で藁草履《わらぞうり》をつっかけて迷いこんできたしらみくさい女の子かね。
しず なんですよ、そんな……。
章介 行きなさい行きなさい。(けい去る)どうも、子供が女になるというのは毛虫が蝶々になるようなものだ。造化の妙といえば妙|此上《このうえ》ないが、考えてみると滑稽なものですね。
しず そんなつまらないこといって、旅行の手続はすんだのですか。
章介 ええ万事済みました。
しず 会社の方も、いつも休ませてすみませんね。
章介 なに、自慢じゃないが私なんぞ会社じゃ、いてもいなくても大した変りはないんです。しかし、そんなこととは別に、私がこの家の商売に関係するのは今度が最後ということにしていただきたいんですがね。
しず 又その話ですか。
章介 又その話ですよ。御退屈でしょうがね。
しず でもまァもう少し私を助けてくれてもいいじゃありませんか。私がこんなに有難く思っているんだから。
章介 いやあ、私は人を助けたり人に有難く思われたりするのは一向好きじゃないんです。
しず ま、そう言わないで、私もこうして病身だし、それに何しろ跡取りがまだ若いし。
章介 私が伸ちゃんの年にはもう親父の代りに問屋通いをしていましたよ。
しず あなたの時代と今とは、時代が違いますから。
章介 姉さん、兄さんが伸太郎を外国語学校へ入れたのは一体いいことだったのですかね。あなたには伸ちゃんに家の仕事を、やらせてゆく気が一体あるんですか。
しず ……あの子は、頭もいいし、気立もやさしいし、親思いの子です。けれど……商売にむいているかどうかということになると、私にははっきりわからないのですよ。
章介 むいているかどうかじゃありません。やらせるつもりがあなたにあるかどうかですよ。
しず そりゃ、伸太郎は長男ですし、当然家の仕事を継いでもらわなくちゃならないと私は思っています。けれどあの身体とあの気性で、抜け目のない清国人を相手のかけ合いができるかどうか……。ま、今のところ古い店のものもいないと思うとつい……。
章介 いけませんよ。やらせるつもりなら思いきってやらせなさい。仕事が人間を鍛えてくれるでしょう。若《も》し仕事に負けて途中でへたばるようなら、それはそれで仕方がありません。
しず まあ、お前は随分冷めたいことをいいますね。
章介 伸太郎をお呼びなさい。私から申渡してやりましょう。
しず そうですね。いずれ一度はしなくちゃならない話です。それじゃ、もう出かけたかどうかちょっとみてきます。(しず去る)
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間。けい。
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けい 遅くなりました。
章介 あ、どうも……。(受取って呑む)うまい。
けい あのう。
章介 ん?
けい 御旅行は、明日お発《た》ちになるんでございますか。
章介 いや、明日はちょっと無理だ。明後日だな。どうして?
けい お洗濯物を。
章介 あ、そうか、すまんな、たのむよ。
けい 明日の朝でもお届けしましょうか。
章介 そうだな。いや、明日の晩もう一度来るからその時もらってゆこう。
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賑やかな笑い声がして庭からふみ、後から精三。
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ふみ いいじゃありませんか。さっさとついてらっしゃい。此方《こちら》からの方がお部屋に近いのよ、あら、いらっしゃい、叔父さま。
章介 ああお帰り、お花見かね。
ふみ フェルマー先生のレッスンに行って来たんですよ。お花見なんて嫌い。埃っぽくってあれじゃお花見だか埃見だかわかりゃしない。
精三 今日は。
章介 やあ、これはこれは。
ふみ 精三さんの妹さんもフェルマー先生のところへ来てらっしゃるんです。あたしあすこへ紹介してもらっていいことしたと思いますわ。親切でお稽古が熱心で……。
精三 そうなんです。音楽家というものはむら気で気むずかしいものですが、あの人にはそういうところがありません。家へなんかよく、遊びに来られますが、まるで親類かなんかのように気がるで話し易いんです。
章介 すると精三君は料理にも精通してるし音楽にも趣味が深いというわけですな。
精三 いやあ。私のはただ、聞くというだけで一向何もわかりゃしないんです。しかし、音楽がわかるとかわからんとかいうことは、仲々むつかしいことで、本人がわかったつもりでいても本当にわかってるんだかわからないんだか、誰にもわかることじゃありませんから。
ふみ 何いってらっしゃるの。あなたのいってることの方がよっぽどわからないじゃありませんか。
精三 や、どうも。ははは。(と縁へ坐ろうとする)
ふみ あら、駄目よ、そんなところへ坐っておしまいになっちゃ。私のお手伝して下さるんじゃなかったの。
精三 あ、そうだっけ。
ふみ 後でけいちゃん、手があいたらお部屋まで来て頂戴。バケツと雑巾《ぞうきん》持ってね。押入れの虫干しするんだから。
けい はい。
ふみ じゃ叔父さま又後で。精三さん。
精三 う、うん。じゃ、御免なさい。(二人去る)
章介 (二人を見送って)人間という奴は、何かやると必ず間違いをしないではいられないらしいな。まるで間違いをするために何かするみたいだ。
けい あの、精三さまは、総子お嬢さまの旦那さまになられる方じゃないのではございますか。
章介 そんなことは俺は知らん、当人達だって、恐らくわかっておらんことだ。しかしこの頃、ちょいちょいふみ子とつながって歩いているところを見るとどうかね。
けい ふみ子お嬢さまも一体どういうおつもりでございましょう。
章介 ありふれた話さ。女にとって、ちやほやしてくれる男はいわば勲章みたいなものさ。多ければ多いほどいいんで邪魔にはならんもんだからね、まあお前なんかもよく気をつけるのだな。(入ってゆく、けい呆れたような顔で見送っている。背後から栄二)
栄二 おい、なにをぽかんとしてるんだい。
けい いえ、何にも。
栄二 その桶どうするんだ。
けい 洗って漬物をするのでございます。
栄二 僕、洗ってやろうか。
けい よろしゅうございます。
栄二 遠慮するなよ。
けい 箍《たが》が外れてバラバラになっても困りますもの。
栄二 大丈夫だよ。
けい 御本人がお受け合いになっても駄目でございます。
栄二 いやに信用がないんだな。
けい 物置の棚を作っていただいて懲《こ》りていますから。
栄二 へえ、どういうわけだい? あれ壊れやしないだろう、そうすぐには。
けい 壊れはしませんけど、お庭の塀の板をはがしておいでになったそうでございますね。
栄二 何だ、知ってるのか。
けい 今朝、大工さんが来て塀を直して居りましたわ。
栄二 あすこは板がない方が通りへ出るのに近いんだがな。
けい 此方の水溜りを埋める土を持ってくるのに向うへ水溜りを掘ってるようなものですって、手数が一遍ですむようにこの次から大工を呼びなさいって奥さまが……。
栄二 お前、余計なことを告口《つげぐち》するからだよ。
けい 私じゃございませんわ。
栄二 お咲の奴だな。後で水ぶっかけてやるから。
けい あら、そんなことなすったらそれこそ私、恨まれてしまいますわ。(袂をさぐる)
栄二 (けいのたすきを見つけほうってやる)それより又船見に連れてってやろうか。
けい 結構でございますわ。
栄二 なんだい。今日はいやに用心深いんだな。
けい だって、あなたさまのは、私をだしにして御自分が港へお行きになりたいのでございましょう。向うへ行ったら私なんかおっぽり出して何処かへ行っておしまいになるんですもの。
栄二 お前だって随分、珍しがってデッキを走ったり転んだりしたじゃないか、船員達が笑ってたぜ。
けい あら。あなたのように船底へもぐり込んで釜焚《かまた》きに怒鳴られたりはしませんわ。
栄二 止そうや。お前と僕だけしかしらないことだし、あんまり自慢になる話じゃないからね。
けい あの船が海を渡って清国の港迄ゆくなんて、私なん
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