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伸太郎。
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伸太郎 栄二、どうしたんだ。大きな声出して。
栄二 兄さん、此奴《こいつ》、泥棒なんだ。あすこから入って来て、櫛とろうとしたんだ。僕がお母さんに上げる櫛持っていこうとしたんだ。お巡《まわ》りさん呼んで、警察にわたしてやるんだ。
けい あら、それだけは御免して、後生だから、お巡りさんに渡すのは堪忍して頂戴。ほら櫛はちゃんと此処へ返したじゃありませんか。私、他人の物盗ったことなんて、今迄に一度だってありゃしないのよ。今だって持ってく気なんてまるでなかったのよ。ただ、ちょっと髪にさしてみただけなんですもの。(伸太郎に)ねえ、あなたは私をお巡りさんに渡したりはなさらないわねえ。しないっていって、私、何でもあなたのしろっていうことするから。
伸太郎 まあまあ、君、そうぐんぐん押したら転んじまうよ。
けい 私、お巡りさんに連れていかれると困るのよ。きっとおばさんが呼び出されてくるわ。おばさんの家に帰されて、どんなひどい目に逢うかわからないんですもの。私、おばさんの家、黙って出て来ちゃったのよ。
伸太郎 君は、今、おばさんの家にいるのかい。
けい ええ、おばさん、とても私をひどい目に逢わせるのよ。自分ちにも食べざかりの子供がいるのに厄介者《やっかいもの》の私が食べるもんだから、物要《ものい》りで物要りで仕方がないっていうのよ。私、坊やのお守りだって、お台所の用だって、おじさんの内職の手伝いだって、何でも厭っていったことないわ。夜なんか十二時より早くねたことないのよ。それでもまだ、私の働きが足りないって怒られるの。私、どうすればいいの。
伸太郎 君のお母さんは、どうしたんだい。
けい 死んじまったの。私を生んだお産の後が悪かったんですって。
伸太郎 それじゃ、君はお母さんてもの知らないの。
けい お母さんの写真、タンスの抽出《ひきだ》しに入っているの見たことあるわ。けど、声をきいた憶えもないし、抱いて貰ったこともないらしいわ。お父さんが、二人分可愛がってくれたからよかったけれど。
伸太郎 そのお父さんはどうしたの。
けい やっぱり死んだの。
伸太郎 病気?
けい ううん。戦争で。
伸太郎 戦争? 今度の?
けい いいえ、前のよ。
伸太郎 それでその後ずうっとおばさんの家で育てられたの。
けい (頷《うなず》く)
伸太郎 そんな戦争で働いて死んだ人の子供を、何だってひどい目に合わせるんだ。
けい 知らないわ。きっと私を引き取りたくなかったんでしょう。他に親類がないので、仕方なしに育ててくれたんだもの。
伸太郎 なんてひどい奴だろう。
栄二 ……うん。ひどいね。
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三人、一寸考えこんでしまう。又軍歌の声。章介、いい気嫌で入ってくる。後からしず。
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章介 どうしたんだ二人共。折角のお祝いの席を外してしまう法があるものか。さあ早く来い。おや、お客様かね。
伸太郎 いや。お客様ってわけじゃないんだけど……。
章介 おいおい隠したって駄目だぞ。こう現場をおさえられてしまってはもう手遅れだ。姉さんあんたはいい子だいい子だなんていっているが、油断もすきもありませんぞ、ちょっと目を離すとこの有様です。
栄二 そうじゃないんだよ。おじさん、この人は僕達まるで知らない……。
章介 こら、まだしらっぱくれるのか。知らない人を座敷に上げて話をしてる奴がどこにある。
伸太郎 いいえ。ほんとうなんです。おじさん、僕達は……この人のお父さんはおじさんと同じように戦争に出て戦死したんです。
章介 お父さんが戦死したからお前達のお客様でないという証拠になるかね。
栄二 ちがうよ。そんなこといってやしませんよ。この人はおばさんの家に引き取られていたんだけど、この家がひどい家なもんで、それで家を出て……。
章介 え? 家を出てどうしたというんだ。お前達の話はまるで現在の状態を説明する材料になっとらんぞ。落第、落第。
しず 章さん。そうお前のように笠にかかって物をいったってわかりゃしませんよ。みんなへどもどして話がごたごたするばかりですよ。(けい、しくしく泣き出す)あなた、なにも泣かなくってもいいんですよ。泣かないでおばさんにわけを話してごらんなさい。え。一体どうしたの。何だってそのおばさんの家を黙って出たりしたんですか。
けい 今日、お昼御飯をたべていてふっと思い出したんです。今日は私の誕生日なんです。お父さんが居たころ、お父さんはいつでもお誕生日には何処かのお料理屋へつれて行ってくれて私を床の間の前へ坐らせました。尾頭付《おかしらつき》の焼物を注文してお祝いしてくれるんです。お母さんがいないから、お家でご馳走することが出来ない。これで我慢するんだよって……。私、ご馳走なんかちっとも欲しくないんです。ただ、何時迄もひとの家の厄介者で、邪魔っけにされているの、急に我慢が出来なくなってしまったんです。
章介 お前、お父さんの戦死した場所を知ってるかい。
けい よくは知らないけど、大東溝っていうところですって。
章介 大東溝、それじゃ俺達の通って来た所だ。お父さんの名前は何ていうの。
けい 布引勝一。
章介 布引勝一? 知らんな。何ていう隊にいたか。そんなこと知らないかね。
けい 知らないわ。私、まだ小さかったんですもの。
章介 ふむ……姉さん。戦争のおかげで一代に産を成し、あなたのように子供から誕生日を祝って貰う人もあり……同じ戦争で父を失い誕生日に町を彷徨する者もあり……さまざまですね。
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間。
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けい ねえ。おばさん。後生だから私を、お巡りさんへ渡すのだけは堪忍して頂戴。もう、これからは決して他所の家へ黙って入ったりなんかしませんから……。
しず 大丈夫ですよ。おばさんは、あなたを警察なんか渡しゃしません。ですから早くお家へお帰んなさい。お家じゃきっと心配してらっしゃいますよ。
栄二 家じゃ心配なんかしてないかもしれませんよ。
しず 何を言うのです。家のものがいなくなって心配しないお宅があるものですか。
栄二 だって……その子の家は……。
しず 子供を育てるってことはねえ。育てられた当人が思っているほど、そう簡単なものじゃありませんよ。自分のお腹を痛めた子供を育てるのだって、時には、もうもうどうしていいかわからないほどつらく、情ないことがあるものです。まして、例《たと》え親類にもせよ、他人の子供を育てて下さったということは、並大抵のことじゃありませんよ。それから又、人ってものは、その辺にごろごろしてる時は邪魔になったり、厄介者に思ったりしていても、さていなくなるとやっぱり惜しいことをした、可哀想なことをした、そういう気になるものですよ。あなたのおばさんにしても今頃はきっとあなたのことを心配してあなたの行先を探してらっしゃるに違いありませんよ。悪いことはいいませんから、もう他所へ行かないでお家へお帰りなさい。ね。
けい (頷いて)帰ります。
しず あ。わかりましたね。よかったよかった。それじゃわき道しないで真直《まっす》ぐに帰えるんですよ。あの誰か送って上げましょうか。
けい いいえ、一人で大丈夫です。
しず そうですか。それじゃ気をつけてね。又お昼にでも暇があったら遊びにいらっしゃい。おばさんのおゆるしをいただいてね。
けい 御免なさい、さようなら。
しず さよなら。気をつけてね。
栄二 おい、待ちたまえ。(と追っかけて)これ、君に上げるよ。(と先刻の櫛を渡す)さ。
けい (黙って受取ってみているが、やがて又しくしく泣き出し、そのまま坐ってしまう)
栄二 君、君、どうしたんだい。
章介 どうしたんだね。え。
けい 私、帰れないんです。帰るところないんです。
しず まあ、どうして? あなた、おばさんのお家を黙って逃げ出して来たんでしょ。
けい 私が抜け出したの、おばさん知ってるんです。私がそうっと裏へ出て木戸をしめようとしたらおばさんが家の中から、大きな声でもう二度と帰ってくるんじゃないよって……。
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泣き倒れてしまう。
四人、顔を見合せている。
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[#地から2字上げ]幕
第二幕
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明治四十二年春。
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座敷はすっかり日本間になっている。桃割に結った、けいが、縁の拭き掃除をしている。縁の所に伸太郎がしゃがんで画帖をひろげ、花か何かを写生している。
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伸太郎 (それが癖の静かな調子で)われわれは小さい時から漢字というものを習ってきている。同じ漢字を使った清国の文章くらいわけなく読めると、普通に思っているらしいけれど、清国人とつき合う上で一番むずかしいことはこの同じ文字を使っているということなのだよ。同じ日本語を話していても僕の家とお前の家とじゃ、随分家の風も人間の気質も違うように、日本語と清国語とでは言葉の順序もその成立ちもまるで違うのだからね。
けい でも、こちらのようにいつも清国の人とお取引をなすっていらっしゃれば、向うの言葉もよくおわかりになるんでしょう。
伸太郎 さあ、取引ということは結局お互に自分に必要な用だけを足すことだからね。用事が足りたから言葉が分るか、といえばそれはどうだか怪しいものだよ。ひとつの国の言葉がわかるということは、実はその国の文明と人間の特質を会得《えとく》するということなのだもの。
けい なんですか、そんなむずかしいことは私にはわかりませんわ。お商売をなさるのにそんなこと迄お考えになるのですか。
伸太郎 僕は、取引の役に立たせるために清国語の勉強をさせられたのだが、言葉の勉強が進むにつれて自分が商売にかけてはさっぱり役に立たない人間らしいということがわかってきて困るんだよ。三国志も水滸伝も僕にとってはもう手離すことの出来ないものだし、八大山人《はちだいさんじん》や石濤《せきとう》の絵についてなら幾らでも話すことがありそうな気がするが、種粕の相場や綿花の収穫については何の意見も方針もない。
けい 私は、こちらのようなお仕事、何だか大変面白そうで先のたのしみもある気がしますわ。この間、栄二さまに波止場へ連れて行っていただきましたの。船から荷物がどんどん積みおろされる所や、引渡しの立合の目の廻るような忙《いそがし》さや今迄みたこともない税関の交渉なんか、何もかも生き生きしていて、頭の中へ涼しい風が吹きこんでくるようでしたわ。
伸太郎 女のお前がなんだってあの騒々しい岸壁の景色にわくわくするのか、僕にはわからないなあ。
けい 岸壁の景色ばかりじゃありませんわ。私はお商売の電信を打ちに行ったり、銀行の交換所へ出かけたりすることも大好きですわ。みるもの聞くものが珍らしいせいかもしれません。私はお茶っぴいだからそういう男らしい仕事の方が好きなんですわ、きっと。
伸太郎 僕にはどっちかといえば学校の教師のような仕事がむいているようだ。日本人の生徒に清国語を教えるようなことでもいいし、清国人の子供を集めて日本語や日本の絵の話をしてやるような仕事でもいい。そういう仕事なら僕もほんとにたのしみな気がするのだが……。
総子の声 けいちゃん。けい!
けい はーい。
総子 (出て来て)けいちゃん、お前すまないけれどこれ千駄木の叔父さまの湯上りと肌着、明日|要《い》るかもしれないのだから今日中洗っておいて頂戴な。肌着の方は手をかけなくちゃいけないかもしれないから今夜にでもちょっとね。
けい はい。
伸太郎 (総子に)自分の頼まれた仕事を他人におしつけちゃいかんね。
総子 だって私、これから精三さんの所へ行こうと思ってた所なんですもの。叔父様ったら明日
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