さあ、どうします。
しず お前って人はどうしてそう、次から次へ、寝てる子を起すようなことをいうのだろう。人が気持よく笑っているのを自分も笑ってみていられないのですか。堤洋行の主人は亡くなったけれど、店の仕事は至極満足に行っています。それに二人の息子と二人の娘がいて、何《ど》れもこれもいい子で私を大事に思っていてくれます。さあどうしますなどという出来事は今のところひとつもありませんよ。
章介 ああ、利巧《りこう》なようでも女は女だ。共にアジアの形勢を論ずるには足らんな。
しず アジアの形勢は論じなくてもよろしいからいい加減に本気でお嫁さんのことでも論じていただきたいですね。
ふみ ほんとだわ。叔父さまの身の回りのお世話はみんな私とお姉さまにかかってくるんですからね。早くお仕立て物から解放していただきたいと思うわ。
章介 仕立物とアジアの形勢か。どうも君達の話の飛躍的なのには驚く他ないね。
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総子(二十一)
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総子 あの、叔父様、こちらでお食事なさるんですか。それとも何処か他へお廻りになるんでしょうか。
章介 そうですね。食べて行けと仰言《おっ》しゃれば御馳走になってもよろしいし、他へ廻れと言われれば廻っても悪くないんですがね。
総子 それじゃ困りますわ。食器の都合もありますし、叔父様が召し上るのならお酒のお仕度もしなくちゃならないんですもの。
章介 総子さん、君は仲々家庭的で思いやりがあっていい婦人だ。きっと倖《しあわ》せになりますよ。
総子 あら、でも私、こういう台所のことするの好きなんですもの。だけど困ってしまうわ。精三さんたらお台所へ入って来て、どうしてもお勝手を手伝って下さるってきかないんですよ。咲やと二人で充分だと、いくらいっても、大丈夫です、大丈夫ですなんて、何が大丈夫なんだかちっともわからないわ。
章介 男が台所へ入って来てお勝手を手伝うといったらそりゃ、私は御亭主になったらこんなにあなたを大事にしますってことさ。
総子 いやだわ、叔父さまったら、だって私はやせていて五尺三寸もあるのに、精三さんたら五尺二寸しかなくって、十八貫もあるんですもの。じゃ叔父様、家で済ましてらっしゃいますね。そのつもりでいますわ。(出てゆく)
章介 ヤレヤレすると今夜もこの家庭|団欒《だんらん》の中で独り盃を含むことになるのかなあ。
しず 何だか物足りなくてお気の毒のようですね。でも、たまには家庭のお料理で食事をした方がいいんじゃないのですか。
章介 私は厭なんですよ。自分が独り者のせいですかね。あなたがたがこんな風に賑《にぎ》やかににこにこしていると、時々大丈夫ですかって尋ねたくなって困る。
栄二 そりゃ、どういうことですか。
章介 さあ、そう開き直られても困るんだが、人間の幸福だとか平和だとかいうものは一枚の紙の表だけみているようなもんだという気がするのだ。幸福で仲間のたくさんいる人間という物は、それだけ不幸で独りぽっちになる機会が多いんじゃないのかね。
ふみ そうかもしれないわ。でも、叔父さまが何時迄も独り身でいらしたり、お料理屋のお酒を呑んだりなさるのは、叔父さまが戦争に行ってらした間に、澄江おばさまが他所《よそ》へお嫁入りしてしまわれたからだと思うわ。
しず ふみちゃん。
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伸太郎(二十二)肖像画の額を抱えて、入って来る。
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伸太郎 やあ、此処にいたの。叔父さん、いらっしゃい。
章介 なんだ伸ちゃん。家にいたのか、留守かと思っていた。
伸太郎 これをどうしても今日中に仕上《しあげ》たいと思ったものだから。
章介 ほう、何だい。(近づいて蔽《おお》いをとる、しずと見比べ)なかなかよく出来てるじゃないか。
伸太郎 お母さんの気に入るといいけれど……。
ふみ どらどら。(近づく)
しず 有難う。絵の方がほんものよりよさそうね。
伸太郎 そりゃおまけですよ。毎日|辛抱《しんぼう》してお相手して下すった。
しず お誕生日のお祝いに私に呉れるというのですよ。
章介 誕生日に物を贈るというのは西洋の習慣ですかね。それとも支那かな。
伸太郎 そりゃどうだかしらないけれど、お父さんは何時でも私達の誕生日には何か下さいましたよ。お父さんが亡《なくな》られてから初めてのお母さんの誕生日だから今年は僕達から何かお母さんに上げようって、皆で約束したのです。栄二は何を上げるんだい。
栄二 うん。僕はこれだ。お母さん、笑っちゃいけないよ。
しず (とって)まあ、綺れいな櫛《くし》だこと。でもお母さんにはちょっと派手すぎるようね。
栄二 そうかな。僕には仲々気に入ってるんだけど。
しず いいのよ。男のお前がこんなところに気をつけてくれて、お母さんはほんとに嬉しいよ、丁度古くから使っていたのが折れてしまったものだから重宝《ちょうほう》しますよ。
栄二 いやあ。実は、あれは僕がふんづけて折っちまったんです。
章介 なんだい。それなら買って来て返すのは当り前じゃないか。
栄二 でもまあ、気は心ですよ。
ふみ 私のは、品物じゃないのよお母さま。私の一番好きな歌をお母さまの為に歌って上げようと思ってるんです。
栄二 おい、そんなのは贈り物にならないじゃないか。
ふみ だって総子姉さまは今日のお料理をお引受けになったでしょ、一番お得意のことをなさるんですもの。私だって私の一番得意のことをしたいのよ。やっぱり気は心だわ。
しず えええ、結構ですとも、あなたがたがそうして祝ってくれる気持だけでも、どんなに嬉しいかわかりませんよ。お正月で、戦には勝つ、おまけにお誕生日で……こんなに嬉しいことってありませんよ。
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野村精三(二十五六)
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精三 あの……お食事の仕度がいいそうですからどうぞ……。
しず ああ、それはどうも。精三さんあなた今迄ずっとお勝手にいらしたのですか。
精三 はあ。
しず まあ、そんなこと、総子や咲やに任せておおきになればよろしいのに。男の方がお台所になぞお入りになるものじゃありませんよ。
精三 いや、いいんですよ。私はああいうことが嫌いじゃないんですから。ははは。(照れて入ってゆく)
章介 ここのうちには近くお目出度いことが起りそうですな。
しず ええ、そうだといいと思っているのですがね。総子がどういうつもりでいるんだか。
栄二 でも精三さんて、何だか変な人だな。
章介 どうして、洗濯や料理が自分で出来る御亭主なんてそうざらにないぜ。どうだね、ふみちゃん、ああいうのなら。
ふみ いやよ、私。
章介 叔父さんのような無精者でも厭、精三君のような働き者でもいや、それじゃ君は一体どういう人を旦那様にもちたいのかね。
ふみ どういう人でも駄目だわ。私、音楽学校へ入って声楽の勉強したいんだもの。
章介 へえ、すると紫の袴《はかま》で上野の森を自転車で乗り廻す組か。
ふみ そう。幸田延子さんみたいに欧州へ留学させて戴くつもりだわ。そうしたら、叔父さまも荷物持ちくらいに連れて行って上げるわ。
章介 やれやれ。有難い仕合せだが、それ迄俺が生きているかどうか。
ふみ まあにくらしい。(打つ)
しず さあさあ、そんなに大騒ぎしないで、向うへ行きましょう。
伸太郎 それじゃひとつ、ふみ子の歌でも拝聴するか。
章介 結構だね。俺もヨーロッパ見物が出来るかどうかの境目だから。
ふみ だめよ。叔父さまなんかにはもう聞かせないのだから。
章介 はあ。さては大きな口をきいて、少し心配になってきたか。
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皆さざめきながら入る。その人々を見送るように庭の石燈籠の影から下げ髪に三尺帯の布引けい、姿をみせ縁の所にちょっとの間立っているが人の気配にすぐ引込む。ふみがばたばたと引き返してきて壁際の戸棚をかき廻して楽譜を持ち出て行く。やや遠くで拍手の音。やがてふみの歌う声。かき流せる筆のあやに……そめし紫……けい、又出て来る。珍しそうに、そろそろと座敷に上りこむ。肖像画の前に立ってみたり、炉の方へ行ってみたりするが先刻栄二が母に贈った櫛が卓の上においてあるのをみると好もしそうに手にとり、髪にさしてみる。栄二入ってくる。
両方で驚く。
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栄二 あああ、驚いた。
けい ……今晩は。
栄二 ああ……誰、君。
けい 私……布引けい。
栄二 ふみ子の友達かい。
けい ……い……いいえ。
栄二 それじゃ総子姉さんの?
けい ……そうじゃないわ。
栄二 じゃあ……何しに来たの君……。
けい ……私……私……。
栄二 変な人だな。一体何処から入って来たのさ。
けい あすこの、お庭の木戸が開いてたものだから……。
栄二 ああ、先刻提燈行列を見に出るので開けたんだ。(思い出したように探す)おや、ないぞ、君、知らないか、この辺に貝細工のついた櫛が……。
けい (反射的に頭をおさえる)
栄二 (気がついて)あ、おい。それをどうするんだ。
けい 御免《ごめん》なさい。御免なさい。私、私、持ってくつもりなんかなかったのよ。ただ、こんな綺れいな櫛自分でさしてみたらどんなにいいだろうと思って……。
栄二 おい。この櫛はお前なんかにささせるつもりで買って来たんじゃないぞ。お母さんに僕が初めて買って来て上げたものだ。なんだって黙って髪にさしたりしたんだこん畜生!
けい だから返すわ。ほら、此処へおくわ。ね、だから御免して。
栄二 今更返したってどうなるもんか。お母さんが使わないうちにお前なんかが使っちまっちゃ、もうお母さんに上げること出来やしないじゃないか。
けい だったら、どうすればいいの。あなたのしろっていうようにするわ。どうすればいいか、教えて。
栄二 どうすればいいか、そんなこと僕にだってわかるもんか。
けい ねええ、私……そんなに器量の悪い方じゃないでしょう。うちのおばさん、私くらいの器量なら新橋や柳橋から芸者に出してもひけをとりゃしないけれど、あんな所は保証人がどうとか、つき合いがどうとかって面倒くさいからそうしないんですって。私、新橋や柳橋の人がどんなに綺れいだか、みたことないから知らないわ。でも時々鏡みて自分でもそんなに悪くないなあ、って思うことあるわ。あなた、そう思わない。
栄二 そんなこと……知るもんか。
けい この間ね、魚屋の新ちゃんが行きちがいに私の手を握ったのよ。新ちゃんて人、八百蔵《やおぞう》に似てるって、うちの近所じゃお内儀《かみ》さんたちが大騒ぎしてるのよ。私、あんな人好きじゃないわ。魚屋のくせにちょびひげ生《は》やしてとても気取ってるの。おかしくって……。あんた、女の子の手握ったことあって。
栄二 そ……そんなことないよ。
けい そお、私だって男の人に手なんて、握られたの初めてよ、とても変な気のするものね。身体中の血が、一ぺんにぶくぶくって煮え返るんじゃないかと思うくらいよ。ふふふ。私、新ちゃんを突きとばしてうちへ逃げて帰ったけど、慌《あわ》てて台所の鉄瓶蹴とばしてしまったわ。うちのおばさん、怒って物さしで私の頬っぺた二十もぶったけど私、痛いとも何とも思わなかったくらいよ。
栄二 おい、そんなに傍によるなよ。お前、どうして僕にそんな話するんだ。
けい あら、あなた、私が怖いの? 何故そんなにおっかなそうな顔するの。(笑って)なにもしやしないわよ。あんたなら、私の手、握ったって、私じっとしててよ。ほら……。(すり寄る)
栄二 こら(つき飛ばして)彼方《あっち》へ行け!
けい 痛い! (と、どっかにぶっつけた肘《ひじ》をこすっている)
栄二 傍に寄るとぶん殴るぞ!
けい 乱暴ね、あんた。
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