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秋の夕方前の日ざしが庭の立木を照らしている。知栄ぼんやり庭をみて坐っている。栄二入ってくる。
片隅の支那カバンを開いて中をごそごそみているが……。
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栄二 知栄ちゃん。
知栄 ああ叔父さま、お帰りなさい。
栄二 何をみているんだね。
知栄 何にもみていないわ。
栄二 いやにぼんやりしてるじゃないか。
知栄 そうかしら、私、時々こんな風になっちまうの、何をするのも何を考えるのも厭になってしまうのよ。
栄二 この家の空気はなんだか妙に沈んでいるね。冷え冷えとしているのは秋という陽気のせいだけではないようだ。まるで水の底にでもいるようだ。濁っていて底のみえない水もあるが、ここのは澄んでいて底のしれない水だ。いつからこんな風になっちまったんだろう。
知栄 しらないわ。私がいろいろなことを憶えているようになってからこっち、ずっとこんな風だったわ。
栄二 昔はこんなじゃなかった。死んだ親爺もおふくろも、賑《にぎ》やかでお祭り騒ぎが好きで家の中には、笑い声が絶えたことがなかった。兄貴は絵書きになるんだといって
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