です。私は、自分で自分がだんだん嫌になってくるのですよ。
章介 何をいうんだ。あんたが今そんなことをいい出してどうする。俺は、あんたのお蔭で初めて人間というものを信じることが出来るようになったと思っているくらいだ。そのあんたが今更自分を信じることが出来んなんて、そんなばかなことがあるもんか。おけいさん、しっかりしなくちゃいかん。あんたは俺にとっちゃ……。(肩をおさえ……急に手を引き、そのまま縁側の方に立っている)
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黄昏の色が濃い。
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[#地から2字上げ]幕
第五幕の一
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昭和十七年正月の昼。
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舞台、前幕とほぼ同じ。椅子、家具を入れ終った所の感じ。けいが、職人井上と女中の清を指図している。
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けい その机はも少し向うへ押した方がよかないかしら。
井上 これですか。
けい ええ、そう。清、ちょっと手を借して上げなさい。
清 はい。
井上 これで、如何《いかが》です。
けい いいでしょう。結構ですね。
井上 戸棚は、此処で、よろしゅうござんすか。
けい そうね。何《いず》れ、当人達が又勝手のいいように直すでしょうから……。
井上 随分古いものですね。こりゃあ。
けい 何しろ明治何年というのですから。
井上 そうでしょう。今出来の物とは違います。じゃ、先代がいらした頃ので。
けい 私がまだ、この家へ来ない時分からあったわけですからね。
井上 へえ。そんな古いものが、よくとってあったものですね。
けい 壊そうったってあなた、この頑丈さですもの。どうにもなりません。私もこの間蔵の中へ入ってみてびっくりしたのですがね。何が役に立つか、わかったものじゃありません。
井上 無駄なものってものはないもんですね。
清 あの、他に用意しておくものはございませんでしょうか。
けい そうですね。何しろ、勝手の違う人達のことだから私にもわからないよ。後は当人達が来てからのことにしましょう。
清 召し上りのもののことやなんか、如何《どう》すればよろしいのでしょうか。
けい まあまあ、そう、いっ時にいわないで下さい、そっちの方のことになると尚見当がつかないのだから。
清 では、このままにしておいてよろしゅうございますか。
けい ええ、後のことは後のことで、また考えましょう。女の子ばかりだから、案外自分達でよろしくやってくれるかもしれませんよ。
清 さよでございますね。では……。
けい あ。御苦労さま。
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清、去る。
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井上 なんですか。支那からのお客様ですか。
けい ええ。
井上 ははあ。長い御逗留《ごとうりゅう》で。
けい ええ。少し長くなると思うんですよ。ひょっとすると、ずうっとこの家の人になるかもしれないのですが……。
井上 そりゃそりゃ。向うの人とくると、言葉も分らないだろうし、お大抵じゃありませんなあ。
けい いいえ、言葉は、片親が日本人ですから、案外平気なんだろうと思うんですがね。何しろ毎日の習慣や、衣食がねえ……違うでしょうから……。
井上 そうでしょうとも。同じ日本人同志でも土佐の人間と越後の人間じゃ、毎日のしきたりってものがこれ、随分違うものでしてね。私なんぞも、仕事の上で仲間と一緒に旅へ出ることがよくありますがね、びっくりして笑っちまうようなことがよくありますよ。
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清。
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清 あの奥さま。横浜の、伸一郎様と仰言しゃる方が……。
けい え? 誰が?
清 よく、わからないのでございますが、伸……何とか仰言しゃいました。
井上 こりゃ、とんだおしゃべりをしてしまって……では私はこれで。
けい 御苦労さま。まあ、お茶でも召し上がって行って下さい。清、頭《かしら》にお茶を。
井上 いえいえ。もう、結構でございます。私はこのままの方が勝手で……じゃ……。
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庭から去る。
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けい それで、旦那様は?
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と行きかける時、伸太郎。
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伸太郎 いいかね、入っても。
けい お帰んなさいまし。お迎えもしないで……。
伸太郎 ああ。しばらくだった。変りはないかね。
けい お蔭様で。あなたの方も……。
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