女の一生
五幕七場
森本薫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)何時《いつ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)家庭|団欒《だんらん》

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(例)[#ここから2字下げ]
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  人

布引けい    知栄の少女時代
堤 しず    野村精三
  伸太郎   職人 井上
  栄二    女中 清
  総子    刑事一
  ふみ    刑事二
  章介
  知栄
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     第一幕の一

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堤家の焼跡。
昭和二十年十月のある夜。

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正面右手寄りに、之だけが完全に残った石燈籠。左手に壕舎の屋根、舞台右手寄りに切石が二つ三つ積んである。高台と見えて地平線の空が月明に明るい。
石燈籠の脇に堤けい、向うむきに坐りこんでいる。じっとして動かない。髪に白いものも多く、戦禍をくぐって来た事とて年よりもぐっとふけて見える。
間。
下手から栄二、けいより一二歳上だが之も最近「或る場所」から出て来たのですこしふけて見える、暫くあたりを見廻しているがけいに気がついて……
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栄二 あの……。
けい ……。
栄二 ちょっとお伺いしたいのですが。
けい はあ(と云ってちょっとふり向くがすぐ向うむいてしまう)
栄二 並河町六番地と言うのは確かこの辺だったのですね。
けい 六番地はこの辺でしたがネ、みんな焼けっちまいましたよ。
栄二 全くひどいもんですね、一軒残らずって言う感じですが……。
けい 一軒残らずですよ。何処もかしこもきれいさっぱり。残っているのは蔵の壁と金庫と石燈籠。(立上って壕舎の方へ歩き出しながら)どちらをおたずねなんですか。
栄二 いや、もうよしましょう。こう見渡す限りじゃ、わざわざ焼跡を探して歩くまでもありません。大体覚悟して来たんです。(切石に腰を降して煙草を出して火をつける)
けい (壕舎へ入ってしまおうかどうしようかと迷いながら)遠方からでもいらしたのですか。
栄二 三時間ほど前に着いたんですがね、盛岡からです。
けい 東京中の人がみんな田舎へ田舎へと落ちてゆくのにわざわざ田舎から出ていらっしゃる方もあるんですね。(しゃがんでしまう)
栄二 奥さんは一人でここにお住いなんですか。
けい ええ、泥棒が入ったって取られる物は焼けちまってないし、この年寄をどうしようと言う人もないでしょうし、結局気楽な一人住いです。
栄二 お身寄りの方はないんですか。
けい いいえ、身寄りがないことはありません。土浦の方で、農場をやっている姉妹もいますし、京都で商業をやっている姉妹もいて、東京を引き上げて来い来いとやかましく言ってはくれるんですが今更気がねをしながら他人の世話になる気もしませんし、やっぱり長い間住みなれた処と言うものはこんなになっても離れられないんですよ。
栄二 そういうものですかね。
けい それに娘と孫を諏訪の方に疎開させてあるんです。どうせ都会育ちの娘達が田舎に何時《いつ》までも落ちつけるものでもなし、何時になるか分りませんが其の連中の帰って来る日の為にもと思ってこんな処に根を下しているんです。
栄二 そりゃなかなか大変ですね。併《しか》しこの見渡す限りの焼跡での一人住いじゃ随分心細い様なこともあるでしょうなあ。
けい それはね……強い様なことを言っても女ですもの、過ぎて来た日の事や行末《ゆくすえ》のことを考えて眠れない事もありますよ。あらいやだ、暫く人とおしゃべりをしないもんだから、すっかりいろんな事をしゃべってしまって……。(立ち上って)どら、そろそろ寝るとしようか。御免なさい。
栄二 おやすみなさい。すみませんね引き止めてしまって。
けい いいえ、どうせ何時にねて何時に起きるという身分じゃないんですから。(小屋の後へ廻って戸の様なものをさげて来る。口の中で切れ切れに歌う)かき流せる……筆のあやに……そめし紫色あせじ。(明治二十三年発行小学唱歌集中、才女)
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煙草を消して行きかけていた栄二がその声を聞いて立ち止る。
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栄二 あの。
けい (歌をやめて)何か。
栄二 今の其の歌は。
けい ふふふふ。何でしょう、今頃こんな歌を思い出すなんて、ずっと昔私が未だ子供の時分に聞きおぼえて未だに忘れないでいるたった一つの歌なんですよ。(そう言って入って行こうとする)
栄二 おけいさん。
けい え。
栄二 (それにはかまわず)するとやっぱりここがあの家だったんだ。そう
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