言えば変り果てた中にも思いだすいろんなものがある。このくつぬぎ石は廻縁《まわりえん》から庭へ出る時何時も踏んづけたものだった。丸坊主になった松の枝ぶりにもくずれた土蔵の面影にも見おぼえがある。ああ、この石燈籠だけは昔のままだ。するとあの辺に兄貴の部屋があって其の隣が私の部屋だったのだ。そこから廻縁を通ってここにあの部屋があった。おけいさん、貴女《あなた》が初めてこの家へ入って来たあの部屋があったのだ。
けい (一、二歩栄二に近づいて殆《ほと》んど息を呑むように)あなたは……栄二さん。
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[#地から1字上げ](早い溶暗)
第一幕の二
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明治三十八年正月の夜。
[#地から1字上げ](溶明)
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堤家の庭に面した座敷。
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外の方で「敵は幾万」と軍歌の声。時々万歳々々の叫び声がつづく。ちょっとした間があって、栄二(次男十九歳)ふみ(次女十六歳)「敵は幾万……」と合唱しながらどんどん入ってくる。
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ふみ みんなすっかり夢中のようね。むやみに提灯《ちょうちん》をふり回してるわ。
栄二 夢中にもなるさ、旅順の陥落は去年の七月から待ってたんだ。何処《どこ》の町内でも三月も前から高張りや小旗の用意をして今日の日を待っている。あんまり何時までも発表がないもので癇癪《かんしゃく》起して折角造った提灯や旗を燃しちまったなんて話もあるくらいだ。
ふみ まあ、そうすれば旅順が早く落ちるとでも思うのかしら。
栄二 そりゃ知らんよ。お前だって帯がうまく結べないからって鏡を放り投げたりするじゃないか。
ふみ ふふふ。私、思い切って大きな声で歌ってみたいな。何だか胸がどきどきするようよ。
栄二 僕もそうだよ、号外みた時手が震えて止まらなかった。明日の晩、提灯行列に出てみようかな。
ふみ 提灯の灯って近くでみるより遠くからの方が綺《き》れいね。そんな気しない?
栄二 うちは高台だから尚《なお》よくみえるのさ。
ふみ 火の帯、火の波、火の流れ、姿のみえない所から軍歌が地響《じひびき》のように湧き上ってきて……ほら、又聞える。身体全体を揺り動かされるような気がするわ。万歳、万歳、万歳……。
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しず、章介(その弟少し跛足《びっこ》)
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章介 勿論《もちろん》嬉しくないことはありませんよ。私だって、日本人ですからね。ただ少し騒ぎが大袈裟《おおげさ》すぎると思うんです。これで戦争に勝ったというわけじゃないのですよ。
しず それはそうですがねえ。勝った時は勝った時で、又お祝いをすればいいじゃありませんか。旅順が落ちたっていうことはそれだけで、充分お慶《よろこ》びしていいことだと思いますよ。
章介 私達が旅順を占領した時はたった一カ月でした。それでも私は自分の片足を埋めて戦いとったところだと思って有頂天でしたよ。ところがその年の暮には呆気《あっけ》なく遼東半島を清国《しんこく》に還付している。しかも今度はその、同じ旅順に半年の歳月と何十万の人命をかけているのです。
しず 誰もそうしようと思った人はないのですよ、皆が皆、最善を尽して、こうなるより仕方がなかったのです。
章介 そうですよ。だからこうなった結果より、こうなるより仕方のなかった次第の方を考えるべきだと思いますね。
しず 世間というものはこれでいいのじゃないのですか。誰もが始終世界の歴史について考えているわけにはいきませんもの。
章介 無責任にして健康なる民衆の智恵ですか。姉さんは自分の嬉しい日なもんだから今日は何でも良い方に解釈出来るんでしょう。
しず (笑って)あなたこそ何も、みんなが素直に喜んでいるものを曲ってとらなくてもいいと思いますね。
ふみ 叔父さまはなんでも、人が右っていえば自分は左といわないと気がすまないのよ。
章介 こらこら、そんな憎まれ口をきくともうお嫁に貰ってやらんぞ。
ふみ 結構でございますよだわ。あたしは叔父様のような不真面目な酔っ払いは嫌いなんですもの。
栄二 叔父さん、旅順が陥ちたってことは、戦争に勝ったことにはならないにしても、少くとも勝敗のわかれを決める決戦に勝ったことになるんじゃないのかしら。
章介 いや、戦争というものは一つ一つの戦闘が決戦だよ。一つの決戦が終ればすぐ次の決戦が控えている。此処《ここ》で勝ちさえすれば後はどうでもいいという戦闘もなければ此処で負けたからおしまいだという勝負もないさ。
栄二 すると、今の戦争は、まだまだ続くんでしょうか。
章介 続くとみていいね、去年の十月に浦塩《ウラ
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