ジオ》艦隊を破り、今又旅順を落して我が軍は意気大いに昂《あが》っているが、ロシヤでは、バルチック艦隊を東洋に回航させるという噂もあるし、陸では沙河に大軍を集めて決戦準備しているという説もある。
栄二 (わくわくして)そうすると、僕が軍服を着るようになるまで、まだ戦争は続くでしょうねきっと。
章介 なんだ、おまえは自分のことを考えて戦争が長くつづけばいいと思っているのか。
栄二 いや。そんなわけじゃないけれど……新聞でみると、アメリカの大統領が金子堅太郎男爵に講和の方策を考えておくようすすめているそうじゃありませんか。そんなに急に講和する様子があるのでしょうか。
章介 そこまでのことは俺達にはわからんがね。しかしたとえば今度の戦争が急にここで終ったとしても、お前達の働かなければならない戦争はまだまだこれからいくつもあるよ。
栄二 そうでしょうか。
章介 というより、これからの日本の生きて行く道というものがすべて戦争だと思わなければ。テオドル・ローズベルトの提議にしてからが、好意的に仲裁の用意があるという程度のものじゃない。戦争をやめなければ貸してある金を返せという、態のいい戦争中止命令だ。何故そんなお節介をするのか。日本がアジアの大陸であまり大勝利を得ると困るからだ。その戦争はどうして起ったかといえば、ロシヤが清国を侵して朝鮮を脅《おど》かしたからだ。ヨーロッパやアメリカの国が何か思い立つ度に日本は、戦争をしたり、やめたり、取るべき理由があって取ったものを還したりしなくちゃならんのだ、そりゃ一体どういうわけだい。
しず 章さん、世間が昂奮するのがおかしいなんていってるけど今夜はあなたも随分昂奮しているようですよ。
章介 いや、私が昂奮しているのは提灯行列やお正月の所為《せい》じゃありません。このアジアの、百年の運動についてですよ。
しず (笑って)おやおや、それじゃまるであなたがその、百年の運命を握ってでもいるようね。
章介 姉さん。あんたの御亭主が支那貿易に目をつけ、三井や三菱に先達って取引をやり出したのは確かに先見の明だと私は感心してるんですがね。その見識が生きるか死ぬかはこれから先にかかっているのですよ。清国の運命はアジアの運命につながっています。その清国の運命に関りを持ち出した堤家の将来は、見方によっては始末におえない厄介な泥沼に足を突込んだようなものですよ。さあ、どうします。
しず お前って人はどうしてそう、次から次へ、寝てる子を起すようなことをいうのだろう。人が気持よく笑っているのを自分も笑ってみていられないのですか。堤洋行の主人は亡くなったけれど、店の仕事は至極満足に行っています。それに二人の息子と二人の娘がいて、何《ど》れもこれもいい子で私を大事に思っていてくれます。さあどうしますなどという出来事は今のところひとつもありませんよ。
章介 ああ、利巧《りこう》なようでも女は女だ。共にアジアの形勢を論ずるには足らんな。
しず アジアの形勢は論じなくてもよろしいからいい加減に本気でお嫁さんのことでも論じていただきたいですね。
ふみ ほんとだわ。叔父さまの身の回りのお世話はみんな私とお姉さまにかかってくるんですからね。早くお仕立て物から解放していただきたいと思うわ。
章介 仕立物とアジアの形勢か。どうも君達の話の飛躍的なのには驚く他ないね。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから3字下げ]
総子(二十一)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
総子 あの、叔父様、こちらでお食事なさるんですか。それとも何処か他へお廻りになるんでしょうか。
章介 そうですね。食べて行けと仰言《おっ》しゃれば御馳走になってもよろしいし、他へ廻れと言われれば廻っても悪くないんですがね。
総子 それじゃ困りますわ。食器の都合もありますし、叔父様が召し上るのならお酒のお仕度もしなくちゃならないんですもの。
章介 総子さん、君は仲々家庭的で思いやりがあっていい婦人だ。きっと倖《しあわ》せになりますよ。
総子 あら、でも私、こういう台所のことするの好きなんですもの。だけど困ってしまうわ。精三さんたらお台所へ入って来て、どうしてもお勝手を手伝って下さるってきかないんですよ。咲やと二人で充分だと、いくらいっても、大丈夫です、大丈夫ですなんて、何が大丈夫なんだかちっともわからないわ。
章介 男が台所へ入って来てお勝手を手伝うといったらそりゃ、私は御亭主になったらこんなにあなたを大事にしますってことさ。
総子 いやだわ、叔父さまったら、だって私はやせていて五尺三寸もあるのに、精三さんたら五尺二寸しかなくって、十八貫もあるんですもの。じゃ叔父様、家で済ましてらっしゃいますね。そのつもりでいますわ。(出てゆく)
章介 ヤレヤレする
前へ 次へ
全28ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森本 薫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング