と今夜もこの家庭|団欒《だんらん》の中で独り盃を含むことになるのかなあ。
しず 何だか物足りなくてお気の毒のようですね。でも、たまには家庭のお料理で食事をした方がいいんじゃないのですか。
章介 私は厭なんですよ。自分が独り者のせいですかね。あなたがたがこんな風に賑《にぎ》やかににこにこしていると、時々大丈夫ですかって尋ねたくなって困る。
栄二 そりゃ、どういうことですか。
章介 さあ、そう開き直られても困るんだが、人間の幸福だとか平和だとかいうものは一枚の紙の表だけみているようなもんだという気がするのだ。幸福で仲間のたくさんいる人間という物は、それだけ不幸で独りぽっちになる機会が多いんじゃないのかね。
ふみ そうかもしれないわ。でも、叔父さまが何時迄も独り身でいらしたり、お料理屋のお酒を呑んだりなさるのは、叔父さまが戦争に行ってらした間に、澄江おばさまが他所《よそ》へお嫁入りしてしまわれたからだと思うわ。
しず ふみちゃん。
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伸太郎(二十二)肖像画の額を抱えて、入って来る。
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伸太郎 やあ、此処にいたの。叔父さん、いらっしゃい。
章介 なんだ伸ちゃん。家にいたのか、留守かと思っていた。
伸太郎 これをどうしても今日中に仕上《しあげ》たいと思ったものだから。
章介 ほう、何だい。(近づいて蔽《おお》いをとる、しずと見比べ)なかなかよく出来てるじゃないか。
伸太郎 お母さんの気に入るといいけれど……。
ふみ どらどら。(近づく)
しず 有難う。絵の方がほんものよりよさそうね。
伸太郎 そりゃおまけですよ。毎日|辛抱《しんぼう》してお相手して下すった。
しず お誕生日のお祝いに私に呉れるというのですよ。
章介 誕生日に物を贈るというのは西洋の習慣ですかね。それとも支那かな。
伸太郎 そりゃどうだかしらないけれど、お父さんは何時でも私達の誕生日には何か下さいましたよ。お父さんが亡《なくな》られてから初めてのお母さんの誕生日だから今年は僕達から何かお母さんに上げようって、皆で約束したのです。栄二は何を上げるんだい。
栄二 うん。僕はこれだ。お母さん、笑っちゃいけないよ。
しず (とって)まあ、綺れいな櫛《くし》だこと。でもお母さんにはちょっと派手すぎるようね。
栄二 そうかな。僕には仲々気に入ってるんだけど。
しず いいのよ。男のお前がこんなところに気をつけてくれて、お母さんはほんとに嬉しいよ、丁度古くから使っていたのが折れてしまったものだから重宝《ちょうほう》しますよ。
栄二 いやあ。実は、あれは僕がふんづけて折っちまったんです。
章介 なんだい。それなら買って来て返すのは当り前じゃないか。
栄二 でもまあ、気は心ですよ。
ふみ 私のは、品物じゃないのよお母さま。私の一番好きな歌をお母さまの為に歌って上げようと思ってるんです。
栄二 おい、そんなのは贈り物にならないじゃないか。
ふみ だって総子姉さまは今日のお料理をお引受けになったでしょ、一番お得意のことをなさるんですもの。私だって私の一番得意のことをしたいのよ。やっぱり気は心だわ。
しず えええ、結構ですとも、あなたがたがそうして祝ってくれる気持だけでも、どんなに嬉しいかわかりませんよ。お正月で、戦には勝つ、おまけにお誕生日で……こんなに嬉しいことってありませんよ。
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野村精三(二十五六)
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精三 あの……お食事の仕度がいいそうですからどうぞ……。
しず ああ、それはどうも。精三さんあなた今迄ずっとお勝手にいらしたのですか。
精三 はあ。
しず まあ、そんなこと、総子や咲やに任せておおきになればよろしいのに。男の方がお台所になぞお入りになるものじゃありませんよ。
精三 いや、いいんですよ。私はああいうことが嫌いじゃないんですから。ははは。(照れて入ってゆく)
章介 ここのうちには近くお目出度いことが起りそうですな。
しず ええ、そうだといいと思っているのですがね。総子がどういうつもりでいるんだか。
栄二 でも精三さんて、何だか変な人だな。
章介 どうして、洗濯や料理が自分で出来る御亭主なんてそうざらにないぜ。どうだね、ふみちゃん、ああいうのなら。
ふみ いやよ、私。
章介 叔父さんのような無精者でも厭、精三君のような働き者でもいや、それじゃ君は一体どういう人を旦那様にもちたいのかね。
ふみ どういう人でも駄目だわ。私、音楽学校へ入って声楽の勉強したいんだもの。
章介 へえ、すると紫の袴《はかま》で上野の森を自転車で乗り廻す組か。
ふみ そう。幸田延
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