子さんみたいに欧州へ留学させて戴くつもりだわ。そうしたら、叔父さまも荷物持ちくらいに連れて行って上げるわ。
章介 やれやれ。有難い仕合せだが、それ迄俺が生きているかどうか。
ふみ まあにくらしい。(打つ)
しず さあさあ、そんなに大騒ぎしないで、向うへ行きましょう。
伸太郎 それじゃひとつ、ふみ子の歌でも拝聴するか。
章介 結構だね。俺もヨーロッパ見物が出来るかどうかの境目だから。
ふみ だめよ。叔父さまなんかにはもう聞かせないのだから。
章介 はあ。さては大きな口をきいて、少し心配になってきたか。
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皆さざめきながら入る。その人々を見送るように庭の石燈籠の影から下げ髪に三尺帯の布引けい、姿をみせ縁の所にちょっとの間立っているが人の気配にすぐ引込む。ふみがばたばたと引き返してきて壁際の戸棚をかき廻して楽譜を持ち出て行く。やや遠くで拍手の音。やがてふみの歌う声。かき流せる筆のあやに……そめし紫……けい、又出て来る。珍しそうに、そろそろと座敷に上りこむ。肖像画の前に立ってみたり、炉の方へ行ってみたりするが先刻栄二が母に贈った櫛が卓の上においてあるのをみると好もしそうに手にとり、髪にさしてみる。栄二入ってくる。
両方で驚く。
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栄二 あああ、驚いた。
けい ……今晩は。
栄二 ああ……誰、君。
けい 私……布引けい。
栄二 ふみ子の友達かい。
けい ……い……いいえ。
栄二 それじゃ総子姉さんの?
けい ……そうじゃないわ。
栄二 じゃあ……何しに来たの君……。
けい ……私……私……。
栄二 変な人だな。一体何処から入って来たのさ。
けい あすこの、お庭の木戸が開いてたものだから……。
栄二 ああ、先刻提燈行列を見に出るので開けたんだ。(思い出したように探す)おや、ないぞ、君、知らないか、この辺に貝細工のついた櫛が……。
けい (反射的に頭をおさえる)
栄二 (気がついて)あ、おい。それをどうするんだ。
けい 御免《ごめん》なさい。御免なさい。私、私、持ってくつもりなんかなかったのよ。ただ、こんな綺れいな櫛自分でさしてみたらどんなにいいだろうと思って……。
栄二 おい。この櫛はお前なんかにささせるつもりで買って来たんじゃないぞ。お母さんに僕が初めて買って来て上げたものだ。なんだって黙って髪にさしたりしたんだこん畜生!
けい だから返すわ。ほら、此処へおくわ。ね、だから御免して。
栄二 今更返したってどうなるもんか。お母さんが使わないうちにお前なんかが使っちまっちゃ、もうお母さんに上げること出来やしないじゃないか。
けい だったら、どうすればいいの。あなたのしろっていうようにするわ。どうすればいいか、教えて。
栄二 どうすればいいか、そんなこと僕にだってわかるもんか。
けい ねええ、私……そんなに器量の悪い方じゃないでしょう。うちのおばさん、私くらいの器量なら新橋や柳橋から芸者に出してもひけをとりゃしないけれど、あんな所は保証人がどうとか、つき合いがどうとかって面倒くさいからそうしないんですって。私、新橋や柳橋の人がどんなに綺れいだか、みたことないから知らないわ。でも時々鏡みて自分でもそんなに悪くないなあ、って思うことあるわ。あなた、そう思わない。
栄二 そんなこと……知るもんか。
けい この間ね、魚屋の新ちゃんが行きちがいに私の手を握ったのよ。新ちゃんて人、八百蔵《やおぞう》に似てるって、うちの近所じゃお内儀《かみ》さんたちが大騒ぎしてるのよ。私、あんな人好きじゃないわ。魚屋のくせにちょびひげ生《は》やしてとても気取ってるの。おかしくって……。あんた、女の子の手握ったことあって。
栄二 そ……そんなことないよ。
けい そお、私だって男の人に手なんて、握られたの初めてよ、とても変な気のするものね。身体中の血が、一ぺんにぶくぶくって煮え返るんじゃないかと思うくらいよ。ふふふ。私、新ちゃんを突きとばしてうちへ逃げて帰ったけど、慌《あわ》てて台所の鉄瓶蹴とばしてしまったわ。うちのおばさん、怒って物さしで私の頬っぺた二十もぶったけど私、痛いとも何とも思わなかったくらいよ。
栄二 おい、そんなに傍によるなよ。お前、どうして僕にそんな話するんだ。
けい あら、あなた、私が怖いの? 何故そんなにおっかなそうな顔するの。(笑って)なにもしやしないわよ。あんたなら、私の手、握ったって、私じっとしててよ。ほら……。(すり寄る)
栄二 こら(つき飛ばして)彼方《あっち》へ行け!
けい 痛い! (と、どっかにぶっつけた肘《ひじ》をこすっている)
栄二 傍に寄るとぶん殴るぞ!
けい 乱暴ね、あんた。
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