伸太郎 お蔭でね。
けい それは結構でした。あの、此処は火がありませんから、茶の間の方へでも参りましょうか。
伸太郎 いや。ここでいいよ。この部屋は昔から日当りのいい部屋だ。ここで日に当ってれば火鉢はいらん。
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縁側へ出て坐る。
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けい そうですか。じゃ。お前はいいよ。
清 はい。
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去る。
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伸太郎 新らしく来た子かね。
けい 前にいたのが母親が病気とかで暇をとりましたので……。無しでやってやれないことはないのですが。
伸太郎 いや、これだけの家に女中無しじゃ掃除だけでも大変だ。店の方も戦争が始まるとまたいろいろと大変だろう。
けい はあ。どうなってゆきますことか……でも私は大分前からそのつもりで仕度をしてきましたから……あの……もっと此方へいらっしゃいませんか。何ですか端近《はしぢか》で……。
伸太郎 うん。いや……いいよここで……、本郷の何は……元気なんだろうね、相変らず。
けい はあ。お変りないだろうと思うのですが、この所ちっともお便りがないもので……。
伸太郎 ちっともみえないのかい、此方へ。
けい ええ。もう随分前から……。
伸太郎 どうしたのだろうな。便りがなければ此方から行ってでもみなくちゃいけないな。
けい そうですね。そういたしましょう。……あの、学校の方へは、その後ずうっと出てらっしゃるのでしょうか。
伸太郎 う……ん。まあね。
けい 何だか、お顔の色がはっきりしないようですけど、何ともないのですか。
伸太郎 そうかな、ここんとこちょっと溜《たま》っていた仕事を一遍にしたものだから疲れが出ているのだよ。……栄二の子供達はまだ来ていなかったのだね。
けい 山田さんが門司迄迎えに行ったのですが、船の都合で一日遅れると、今朝電報を打って寄越しました。明後日くらいになるかと思っています。あなたのお指図も待たないで差出たことをしまして……。
伸太郎 そんなことはないさ。親爺はいないおふくろに死なれるじゃ、あの連中も心細いだろうからね。しかし、お前はよくよく人の世話をするように出来てるのだな。
けい ……。(首を垂れる)
伸太郎 ところで世話ついでと言っちゃ何だが、今日は一つ頼みがあるんだが。
けい なんでしょう改まって。
伸太郎 知栄のことなんだがね。
けい 知栄がどうか致しましたのですか。
伸太郎 今朝起きぬけに松永君がやって来て、とうとう来ましたって言うんだよ。
けい と言うと。
伸太郎 応召だよ。
けい でもあの人はもう少しで予備に入るくらいでしょう。
伸太郎 今来ているのは皆その辺らしい、三十七八と言ったところらしいんだよ。
けい それじゃあの子も大変ですね。此の間バスの窓から一寸姿を見ました。二人の子供を歩かせて何だかとても倖せそうに見えました。次の停留所で降りてみようかと思ったけれどやっぱり其のままにして帰りましたが。
伸太郎 ……。
けい 暮し向きの事や何かどうなんでしょうね。
伸太郎 うん、それなんだがね、俺も今までくわしい事は知らなかったんだが、ああ言う音楽家などと言うものは別に何処の会社へきまって出勤すると言う事がないので定収入と言うものはないらしいんだね。ふだんは仕事をしさえすれば金が入るものだから、何とも思わなかったらしいが、こんな場合になってみると後に残る者の事がひどく心配になって来たんだ。と言って相談を掛けられても俺の方でも今の処《ところ》あの家族をどうしてやれると言う程のゆとりがあるわけではなし、……そこでお前に相談に来たわけなんだが……。
けい ……。
伸太郎 俺も今更、お前にこんな事が相談出来た義理でもないのだが、外に大した名案もなしそれかと言って此の先何時まで続くか分らない戦争に、他人の力を当にするわけにもゆかないので……。
けい いいえそんな、相談出来た義理だの何だの。堤のお家はあなたのお家でございます。あなたがなさろうとお思いになる事に私はこれまで一度だって反対した事はございませんし、する理由もありませんわ。
伸太郎 確かにそうだ。お前の寛大なのをよい事にして俺はこれまで度々、当てにしてはならない時にお前を当てにしてすませて来たものだ。だからと言って俺が恥も面目も知らない人間だとは、まだ思っていないのだ。
けい 私は唯、松永さんがなぜ娘の事ならわたしに言って下さらなかったのかとそれを淋しく思ったのです。
伸太郎 そりゃ松永君だって事情を知らないわけじゃないんだから、お前に直接は言いにくかったんだろう。知栄は家を出る時は、ああして後足で砂をか
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